Wikiwand AI

林家染丸

上方落語の名跡 From Wikipedia, the free encyclopedia

林家 染丸(はやしや そめまる)は、上方落語の名跡であり、現在は上方林家の事実上の止め名。当代は4代目。初代・2代目と卯年の生まれであったため、2代目以降はうさぎ(ぬの字うさぎ)を定紋としている[1]。

2代目

概要 本名, 生年月日 ...
2代目 林家(はやしや) 染丸(そめまる)
本名 岡本 仁三郎
生年月日 1867年2月12日
没年月日 (1952-11-11) 1952年11月11日(85歳没)
出身地 日本の旗 日本・和泉国堺
(現・大阪府堺市堺区)
師匠 3代目笑福亭松鶴
弟子 林家染之助
林家染三
林家うさぎ
3代目林家染丸
3代目林家染語楼
2代目林家染之助
林家染蔵
林家染八
林家染團治
名跡 1. 笑福亭梅喬(1890年 - 1893年)
2. 5代目笑福亭松喬(1893年 - 1912年)
3. 2代目林家染丸(1912年 - 1952年)
活動期間 1890年 - 1952年
活動内容 上方落語
家族 岡本美国太夫(実父)
2代目笑福亭小福(実子)
所属 三友派
花月
主な作品
「電話の散財」
閉じる

2代目 林家 染丸(はやしや そめまる、1867年2月12日(慶応3年1月8日) - 1952年(昭和27年)11月11日)は、明治から昭和にかけての上方落語の落語家[1]。本名: 岡本仁三郎[1]。

来歴 (2代目)

現在の大阪府堺市に生まれる[1]。父は新内節の岡本美国太夫[1]。左官職に就きながら、「花丸」の名で素人落語家としても活動した[1]。

1890年4月に[要出典][注釈 1]、3代目笑福亭松鶴門下で「梅喬」を名乗り[1]、神戸湊亭で初舞台を踏む[要出典]。1893年ごろに[要出典][注釈 2]、5代目松喬を継ぐ[1]。以前の「松鶴」のうち2名(初代と3代目)が「松喬」からの襲名だったことから4代目の候補にも挙げられた[1]。

しかし、3代目松鶴が講談師に転じると後ろ盾を失い三友派の端席などで苦労を重ね、1910年にようやく一門幹部となり三友派の中心にまで出世した[要出典]。だが「松鶴」の名跡は弟弟子の初代枝鶴が襲名したため、7代目桂文治の勧めにより、1912年5月に2代目林家染丸を襲名した[1]。以降、上方林家は、6代目林家正楽の系統が絶えたこともあり、元来の林家正三の流れから、笑福亭の傍流となる[4]。

上方落語界は、三友派や反対派などが分立した状態から、1920年代前半に吉本興業部の花月系に統合される[5]。染丸もその流れの中で吉本に属して活動した[1]。昭和10年代に「林染会」を組織し、後進の指導に力を尽くした[1]。1940年ごろに吉本から引退を勧告され(弟子の3代目染丸によると後述する妻も務めていた囃子方を退かされた)、親交の深かった講談師の大島伯鶴を頼って東京に移住したものの、中風を発症したこともあり、1年ほどで帰阪した[6]。戸田学は、1942年に一度落語家を引退したと記している[7]。戦局の悪化で日本本土空襲が本格化すると、被害を恐れて奈良県三輪町(現・桜井市)に約3か月疎開したこともあった[8]。

戦後は5代目笑福亭松鶴に誘われて「上方はなしを聴く会」に「3回ほど」出演したが、舌のもつれが出るようになる[7]。1947年9月の戎橋松竹杮落としの口上でも咳き込んだ[7]。1952年11月10日の夜、嘔吐していたため医者が呼ばれ、注射を断って投薬だけ受けて就寝し、翌朝死亡しているのが発見された[9]。85歳没。法名は釋林染、辞世は「笑はせに来て笑はれた五十年」[1]。墓所は大阪市天王寺区の一心寺にある[1]。

芸風・人物 (2代目)

若手時代は本芸よりも余興の四つ竹で出ることが多かった[要出典]。

人格円満で、多くの人々に慕われた[要出典]。得意演目は2代目桂文之助原作の『電話の散財』で[1]、染丸が完成させた[10]。その他にも『景清』『応挙の幽霊』『河豚鍋』『堀川』などがある[1]。このうち、『河豚汁』(『河豚鍋』)は先行して存在した小咄を染丸が改作したとされる[11] [12]。

妻は1914年に結婚した寄席囃子界随一の存在であった林家とみ(戸籍名:トミ)[13]。正岡容は2代目染丸と妻について、1940年に執筆した「寄席朧夜」に以下のようなエピソードを記している[14]。季節に合わせた演目を演じる大阪落語に好感を抱いていた正岡は、ある年の春に大阪を訪れると紅梅亭を観覧した[14]。しかしそこで出てきた染丸は、季節とは縁遠い『堀川』を演じた上に、最後の猿回しの口上のところで下座の三味線の糸が切れ、怒りの色を浮かべて「糸が絶(き)れましたよってまた明晩おきき直しを……」とそのまま話を打ち切って高座を降り、さらに楽屋から客席に聞こえるほどの声で「オイお前、肝腎のとこで糸絶らしたら仕様ないやないかド阿呆」と怒鳴り、正岡は大いに興をそがれた[14]。そのすぐ後に出た音曲の5代目橘家圓太郎は「姐ちゃんいま染丸さんに怒られて気の毒だけど一つぺんぺんを弾いてお呉ンなさいな」と慇懃に頼み、正岡は圓太郎には好感を、染丸には嫌悪を抱いた[14]。3年後に正岡が5代目松鶴とミナミで飲んでいたときにこのエピソードを話すと松鶴は大笑いし、圓太郎が当時美人の女性義太夫となれそめたばかりで機嫌がよかったことと、下座が2代目染丸の妻であることを告げたという[14]。

晩年の染丸は銭湯にはトミに連れられ、トミは服(もんぺ)を来たまま男湯に一緒に行って体を洗ったりひげを剃ったりしたという[15]。

富士正晴によるとトミは後妻で、その前に結婚していた妻と死別している[16]。先妻との間には1男2女があり、息子は2代目笑福亭小福(初代笑福亭福松門下)となった[17]。

弟子 (2代目)

3代目

概要 本名, 生年月日 ...
3代目 林家(はやしや) 染丸(そめまる)
3代目 林家(はやしや) 染丸(そめまる)
永田 登三『関西の顔』(淡交新社、1962年)より
本名 大橋 駒次郎(おおはし こまじろう)
生年月日 1906年3月25日
没年月日 (1968-06-15) 1968年6月15日(62歳没)
出身地 日本の旗 日本
師匠 桂次郎坊
2代目林家染丸
弟子 4代目林家染丸
4代目林家小染
3代目林家染三
林家染奴
林家染和
名跡 1. 桂駒坊(時期不明)
2. 大橋亭駒坊(時期不明)
3. 林家染五郎(1932年 - ?)
4. 2代目林家染語楼(? - 1953年)
5. 3代目染丸(1953年 - 1968年)
活動期間 ? - 1968年
活動内容 上方落語
家族 竹本小七五三太夫(実父)
所属 吉本興業
主な作品
「堀川」「片袖」「猿後家」「太鼓腹」
「茶目八」「河豚鍋」「隣の桜」「借家怪談」
「寝床」「阿弥陀池」「莨の火」「淀五郎」
備考
上方落語協会初代会長(1957年 - 1968年)
閉じる

3代目 林家 染丸(はやしや そめまる、1906年3月25日 - 1968年6月15日)は、昭和期の上方落語の落語家[18]。本名: 大橋駒次郎[18]。あだ名は「おんびき」(ヒキガエルのこと)[18]。出囃子は『たぬき』[18]。吉本興業所属。上方落語協会の初代会長も務めた[18]。

来歴 (3代目)

父は義太夫の竹本小七五三太夫[19]。7、8歳頃には寄席小屋で落語を聴くようになる[19]。11歳の時、両親と死別し、親戚の帽子問屋の丁稚となる[19]。奉公先で商売を教わり、13歳の頃には一人で地方に出張に出されるほどとなる[19]。同じ頃、3代目桂文三門下の桂次郎坊に桂駒坊(または大橋亭駒坊)の名をもらい[注釈 3]、素人落語研究会で活動する[19]。使い込みを働いて(放蕩のため)解雇されるが、直後に徴兵で陸軍歩兵第37連隊に入隊、やがて「落語上等兵」と呼ばれるようになる[19]。満期除隊に前後して叔母の養子となり、叔父の遺産を元手に帽子卸の店を開くも、放蕩により破産[19]。その後は消防署に勤務した[19]。

25歳の時、遊園地で開かれた新聞社主催の素人演芸コンクールで優勝し、優勝特典として落語をレコード(タイヘイレコード)に吹き込んだ[19]。それを聞いた2代目染丸から弟子入りの誘いがあり、1932年6月に正式に入門が許され染五郎(のちに柳家金語楼にあやかり2代目染語楼)を名乗る[19]。この頃は消防署勤務も続けながら勤務のない隔日で稽古に通い、2代目染丸の「林染会」に参加したり、結成した慰問団で余興に出たりするセミプロ状態であった[19]。

1944年中国戦線に出征し[19]、湖南省衡陽にて慰問団長となる[20]。1946年7月に復員当初は慰問や5代目笑福亭松鶴の「上方落語を聴く会」に参加したものの、妻の実家のある埼玉県妻沼町に移住して落語から離れる[19]。妻沼で取れた芋を大阪で売って成功、続いて静岡県下賀茂温泉の塩を埼玉県や群馬県に運ぶ事業を手がけた[19]。1952年11月、師が没し一門の衰退に危惧した弟弟子の2代目小染(のちの3代目染語楼)と2代目桂春団治夫人・河本寿栄の尽力により[要出典]芸界に復帰し、翌年の1953年8月、3代目染丸を戎橋松竹で襲名した[18]。襲名は生前に2代目が遺書に認めており、落語家復帰を機に在住していた伊豆から大阪に戻った(生野区にあったたばこ店の権利を買った)[19]。

1957年4月、上方落語協会の創設に伴い初代会長に就任[21]。協会の創設は染丸が主導した[21]。5代目桂文枝によると、染丸が会長となったのは最年長だったことに加え、実業で稼いだ経験が豊富なため「あの人を会長にすればやっていけるんではないか」という理由からだったという[21][22]。また5代目文枝の回想では、会長としては独断で「お客に取り入ってなんとかしようと」する傾向があり、6代目笑福亭松鶴や3代目桂米朝に「そら、会長、行きすぎですわ」と止められることがしばしばあったという(その場合は「それやったら」と矛は収めた)[23]。毎日放送『素人名人会』の審査員を務めて人気を博し、高座ではえびす顔で「林家染丸でございまして、本名(通称)を長谷川一夫と申します」と挨拶することが定番だった[18]。このころは染丸のほかに協会幹事の4代目笑福亭枝鶴(のちの6代目笑福亭松鶴)・3代目桂米朝・3代目桂小文枝(のちの5代目桂文枝)・2代目桂福団治(のちの3代目桂春団治)の5人を合わせて「上方落語五人男」と称されたが、やがて染丸以外の4人が「上方落語の四天王」と呼ばれるようになる[24]。

最後の高座は1968年4月26日、サンケイホールでの「上方落語名人会」で演じた『猿後家』[25]。すでに肝臓癌の末期で、入院中の病院から外出許可を取って演じた。医者からは猛反対を受けたが押し切った[25]。約2か月後、肝臓癌で死去[18]。62歳没。

死去から49年後の2017年6月17日に、弟子の4代目林家染丸らを中心にして、3代目染丸の50回忌追善落語会が天満天神繁昌亭にて開催された[26]。

芸風・人物 (3代目)

得意演目は『景清』『猿後家』『ちりとてちん』などがあった[18]。染語楼時代の1940年の『上方はなし』第44号に掲載された「新人染語楼論」(伊勢三郎)には「染語楼君の芸にはたしかに大衆性がある。大衆にこびて行こうとする点さえもある。彼がもっと修行を積んだ落語家なら、筆者は大いにこの点を推奨したい。(中略)しかし修行中の彼がうけをねらったり、客にこびては芸が大成しない。芸が大きく伸びないで縮んでしまうのだ。」と、その大衆性を評価しながらも、それが制約となる危惧が指摘されていた[19]。幕内からは生涯「素人芸」という揶揄がついてまわったという[19]。3代目桂米朝は2004年の対談で染丸について「もうはっきり言うて、きっちりと噺を覚えない」と評し、そのために、6代目笑福亭松鶴は染丸を「好きやなかった」と述べている[27]。一方、2代目桂枝雀はアマチュア時代から3代目桂米朝に入門したころまでは染丸の落語が好きで口ぶりも真似ていたため、3代目桂米朝に「普通にいうたらどうや」と「数え切れんほど」指導されたという[28]。

実生活は謹厳そのもので、高座を降りると鬼のような形相となり、弟子たちは絶えず気を抜けなかった[要出典]。上岡龍太郎は「染丸師匠ほど楽屋と舞台との顔の違う人も珍しかった」と述べている[29]。一方人情味に溢れ、弟子の染二(現・4代目林家染丸)が風呂を沸かす際の不手際でガスが爆発して夫人が「こんなところで怪我したらかなわんやないか。あんたよその子やねんから」と口にしたところ、「よその子やあらへんがな。うちの子や!うちの子やさかい怪我したらあかんねや」と夫人を叱り、染二を感激させた[30]。ただし5代目桂文枝によると平生は恐妻家で、一緒に飲んで帰宅に同行した際には家の前で騒がないように釘を刺された(騒ぐと家に入ってから叱られるという理由)という[23]。

弟子 (3代目)

門下には、4代目染丸の他、4代目小染(「ザ・パンダ」メンバー)、3代目染三(オール阪神・巨人の師匠)、染奴(後の月亭可朝)、染和(後の橘家圓三)等がいる。

脚注

参考文献

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks