東京帝国大学理学部を卒業後、三井物産に勤務[1]。
1940年(昭和15年)、軍事物資である水銀調達の相談のため大連特務機関長・安江仙弘大佐を訪問した際、杉原千畝がリトアニアでユダヤ難民に大量の通過査証を発行していた話を聞き、その事実を記録した。この記録は戦後、杉原千畝の「命のビザ」に関する重要な証言資料の一つとなっている[1]。
また、陸軍主計大佐の新庄健吉がアメリカの国力を調べるためにニューヨークに赴いた際、三井物産社員として調査に協力している[2]。
戦後は長崎県の鎮西学院(旧・長崎ウエスレヤン短期大学など)に関わり、理事長などを歴任した[3]。