台場 (福岡藩)
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2度目のペリー来航ののち、安政元年(1854年)8月1日、福岡藩は海岸枢要の地、およそ10か所に台場を建設する許可を幕府に願い出た[6]。実地検分は安政2年(1855年)より始まり[7]、安政3年(1856年)には少なくとも一部が完成したと見え、3ヶ所の台場に大砲17門を積みまわした記事が残る[8]。万延元年(1860年)には志賀島・能古島の台場が完成[9]、文久元年(1861年)4月12日には、志賀島・能古島・荒戸山に大砲が設置された[10]。その後、攘夷運動の高まりとともに諸藩で台場築造の動きが加速、福岡藩でも領内各所に台場が設けられ、異国船来襲に備えている。台場が置かれたのは主に、洞海湾の入口、遠賀川河口、そして福岡・博多を守る枢要の地で、その築造にあたっては海底の測量も行ったという[11]。また台場の築造工事と並行して、能古島・志賀島間(約2キロメートル)に大造筏を組並べて海路を塞ぐことが計画され、筏は文久3年(1863年)冬までに完成、有事の際にはいつでも設置できるよう、格納されていた[12]。
福岡城下の台場



福岡城下に築造された台場のうち波奈・洲崎の台場は特に規模が大きなもので[13]、福岡城防衛という役割を担っていたと考えられている[14]。築造工事は文久3年(1863年)4月7日より始まり[15]、足軽も含め、家中総出で築造にあたり、福岡・博多のみならず、農村・漁村からも人夫、あるいは人夫に支払う賃銭を拠出したという。藩主も自ら見分にあたり、「中々大そうの御事」であったと伝わる[13]。波奈の台場は6月20日に完成したが[15]、これは寛政12年(1800年)から享和2年(1802年)にかけて築造された[16]人工島を一部改修したものである。一方、洲崎の台場は文久3年(1863年)10月に完成、大砲24~25門が据え付けられた[17]。一般に台場の平面形状は不等辺多角形であることが多いが、波奈・洲崎の台場はいずれも、弧を描くように塁線がカーブしているのが特徴であり、いわゆる稜堡式築城とは異なるものである。波奈・洲崎の台場に加え、元治元年(1864年)8月には福岡・博多の海岸5ヵ所に土俵台場が築造された[18]。その後さらに増設されたと見え、幕末頃の「福岡城之図」には福岡・博多の海岸に12か所の小規模な台場が図示される[19]。
台場一覧
「福岡藩砲台備石火矢覚」による、台場の所在地〈現在地〉および大砲の大きさ(設置数)を以下に示した[20]。
- 名護(古)屋崎〈福岡県北九州市戸畑区中原〉5貫目砲(3)、2貫目砲(2)
- 中ノ島〈北九州市戸畑区、若戸大橋中央部真下付近〉2貫目砲(2)、1貫目砲(2)、0.8貫目砲(1)、0.5貫目砲(1)、
- 若松〈福岡県北九州市若松区本町付近〉0.8貫目砲(3)
- 柏原[山鹿]〈福岡県遠賀郡芦屋町大字山鹿〉2貫目砲(1)、1貫目砲(1)、0.8貫目砲(1)、0.3貫目砲(1)
- 芦屋〈福岡県遠賀郡芦屋町幸町〉2貫目砲(1)、1貫目砲(1)、0.8貫目砲(5)
- 西戸[堂]崎〈福岡市東区西戸崎〉1貫目砲(2)
- 志賀島〈島の南端付近〉2.8貫目砲(1)、2貫目砲(1)、1.5貫目砲(1)、1貫目砲(3)、0.3貫目砲(1)
- 能古島(残島)〈島の北端付近〉5貫目砲(1)、2貫目砲(3)、1.5貫目砲(1)、1貫目砲(1)
- 洲崎〈福岡市中央区天神5丁目〉12貫目砲(1)、5貫目砲(8)、2貫目砲(6)
- 波奈〈福岡市中央区港3丁目〉12貫目砲(1)、5貫目砲(7)、2貫目砲(2)
- 高祖山〈福岡市西区〉1貫目砲(3)、0.3貫目砲(2)
- 加布里〈福岡県糸島市加布里付近〉1貫目砲(2)、0.2貫目砲(1)《筑前国怡土郡内の幕府領》
※1貫目を3.75kgとすると、12貫目=45kg、5貫目=18.75kg、2.8貫目=10.5kg、2貫目=7.5kg、1.5貫目=5.625kg、1貫目=3.75kg、0.8貫目=3kg、0.5貫目=1.875kg、0.3貫目=1.125kg、0.2貫目=0.75kgとなる。250目玉(250目=0.25貫目=0.9375kg)を用いる石火矢の口径は5.45cmであることが知られる[21]から、口径が砲弾の直径に等しく、かつ砲弾の素材・形状が同じと考えるなら、12貫目砲の口径は5.45*(45/0.9375)^(1/3) =19.8cm(小数点第2位以下を四捨五入、以下同)、5貫目砲は口径14.8cm、2.8貫目砲は口径12.2cm、2貫目砲は口径10.9cm、1.5貫目砲は口径9.9cm、1貫目砲は口径8.7cm、0.8貫目砲は口径8.0cm、0.8貫目砲は口径6.9cm、0.3貫目砲は口径5.8cm、0.2貫目砲は口径5.1cmと推定される。
台場築造後
元治元年(1864年)、長州藩へ異国船が襲来するとの風聞があり、福岡藩でも異国船襲来に備えて対応策を定めた。それによると、玄界灘より異国船が侵入してきた場合、玄界島遠見番より大砲を用いて空砲を2発放ち、志賀島、西戸崎、波奈へと順々に大砲の音で受け継ぎ、福岡城内より大砲・鐘・太鼓で急を知らせ、福岡・博多の寺院が一斉に鐘を撞き、これを聞いた武士は受持ちの台場等へ走り、町人は所定の農村地域へと避難することになっていたという[22]。その後、下関戦争・薩英戦争での長州藩・薩摩藩の敗北を知った福岡藩は、万一の場合には福岡城を放棄することも検討、犬鳴谷(福岡県宮若市)に藩主の別館を急ぎ建設した[23]。しかし攘夷運動は下火となり、台場は次第にその存在意義を失っていく。名護屋崎台場は慶応3年(1867年)11月に廃止となり、大砲は付属品とともに近くの中ノ島に移され、新たに設けられた建物内に格納されたという[24]。