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薩英戦争

江戸時代末期、薩摩藩と大英帝国の間で勃発した戦争 From Wikipedia, the free encyclopedia

薩英戦争(さつえいせんそう、文久3年7月2日4日〈新暦: 1863年8月15日17日〉)は、薩摩藩大英帝国イギリス[注釈 3])の間で起こった戦闘である。文久2年8月21日1862年9月14日)に武蔵国橘樹郡生麦村で発生した生麦事件の解決と補償を艦隊の力を背景に迫るイギリスと、主権統治権のもとに兵制の近代化で培った実力でこの要求を拒否し防衛しようとする薩摩藩兵が、鹿児島湾で激突した。

概要 薩英戦争, 交戦勢力 ...
薩英戦争
戦争:薩英戦争
年月日:1863年[1]8月15日 - 8月17日
場所:江戸幕府・薩摩国鹿児島湾
結果:幕府が生麦事件の遺族への扶助料を支払い講和。
交戦勢力
薩摩藩 イギリスの旗 イギリス帝国
指導者・指揮官
島津久光 イギリス オーガスタス・レオポルド・キューパー
戦力
薩摩藩 イギリス海軍
損害
砲台の戦死5名[2][3]
負傷者9名[4]
大砲8門[5]
藩汽船3隻焼失[6]
市街の死傷者9人[7]
戦死13名[3][5]
負傷者50名[3][5]
負傷者の死亡7人[8]
艦船大破1隻[3]
中破2隻[3]


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薩摩方は鹿児島城下の約1割を焼失したほか砲台弾薬庫に損害を受けたが、イギリス軍も旗艦「ユーライアラス」の艦長や副長の戦死や軍艦の大破・中破など大きな損害を被った。この戦闘を通じて薩摩とイギリスの双方に相手方のことをより詳しく知ろうとする機運が生まれ、これが以後両者が一転して接近していく契機となった。

イギリス国内ではこの戦闘を単に「Bombardment of Kagoshima」(鹿児島砲撃)と呼んでいる。鹿児島では城下町付近の海浜が「前の浜」と呼ばれていたため、まえんはまいっさ(前の浜戦)と呼ばれる[9]

生麦事件

文久2年8月21日(1862年9月14日)、生麦事件が発生する。横浜港付近の武蔵国橘樹郡生麦村で、薩摩藩主の父・島津久光の行列を乱したとされるイギリス人4名のうち3名を島津家家来の奈良原喜左衛門海江田信義らが殺傷する(死者が1名、負傷者が2名)。

この種の事件は、不平等条約を強制された国々で発生せざるを得ない特徴的な事件である。居留地にいる条約締結国国民は治外法権で保護されている。居留地外では当該国の法に従う事になる。そして、居留地に居住する外国人は遊歩区域が認められている。横浜では「神奈川 六郷川筋を限として其他は各方へ凡十里」とされていた。このグレーゾーンでは、正統性が両国の力関係で決定される。このような紛争を介して欧米列強は、どの国においても「内地自由通行権」の獲得に力を注ぐことになる[10]

交渉

イギリス公使代理ジョン・ニール

交渉までの経緯については、備考を参照のこと。

文久3年5月9日(1863年6月24日)、イギリス公使代理のジョン・ニール幕府から生麦事件の賠償金10万ポンドを受け取った。

6月22日8月6日)、ニールは薩摩との直接交渉のため、7隻の艦隊(旗艦ユーライアラス」(艦長・司令J・ジョスリング一等海佐 (Captain)[注釈 5])、コルベットパール」(艦長J・ボーレイス一等海佐 (Captain)[注釈 5])、同「パーシュース」(艦長A・キングストン海尉 (Lieutenant-Commander)[注釈 6])、同「アーガス」(艦長L・ムーア海尉 (Lieutenant-Commander)[注釈 6])、砲艦「レースホース」(艦長C・ボクサー海尉 (Lieutenant-Commander)[注釈 6])、同「コケット」(艦長J・アレキサンダー海尉 (Lieutenant-Commander)[注釈 6])、同「ハボック」(艦長G・プール海尉 (Lieutenant)[注釈 6])、指揮官:イギリス東インド艦隊司令長官オーガスタス・レオポルド・キューパー海軍少将)と共に横浜を出港。6月27日8月11日)にイギリス艦隊は鹿児島湾に到着し鹿児島城下の南約7kmの谷山郷沖に投錨した。薩摩は総動員体制に入り、寺田屋騒動関係者の謹慎も解かれた。

6月28日8月12日)、イギリス艦隊はさらに前進し、鹿児島城下前之浜約1km沖に投錨した。艦隊を訪れた薩摩の使者に対しイギリス側は国書を提出。生麦事件犯人の逮捕と処罰、および遺族への「妻子養育料」として2万5000ポンドを要求した。島津家は回答を留保し翌日に鹿児島城内で会談を行う事を提案している。

6月29日8月13日)、イギリス側は城内での会談を拒否、早急な回答を求める。

島津家は「生麦事件に関して責任はない」とする返答書をイギリス艦隊に提出し、イギリス側の要求を拒否した。イギリス艦隊は桜島横山村小池村沖に移動した。

一方、奈良原喜左衛門らはイギリス艦が薪水・食料を求めたのに対して奇襲を計画し、海江田信義、黒田清隆大山巌らが国書に対する答使と果物スイカ売りに変装し艦隊に接近した(西瓜売り決死隊)。使者を装った一部は乗艦に成功したが、艦隊側に警戒されてほとんどの者が乗船を拒まれたため、奇襲作戦は中止され、奈良原らは退去した。

7月1日8月14日)、ニール代理公使は島津家の使者に対し、要求が受け入れられない場合は武力行使に出ることを通告した。島津家は開戦を覚悟し、当主・島津茂久と後見役・島津久光は、鹿児島城が英艦隊の艦砲の射程内と判断されていたため、新たに本営と定めた鹿児島近在西田村(現・鹿児島市常盤)の千眼寺に移った。併せて上町・下町の町人地域にも避難指示を諭達した。

戦闘について

イギリス艦隊の旗艦には、幕府から得た賠償金が積まれていたが、イギリス側は島津家との賠償金の交渉を有利にするために薩摩汽船3隻を掠奪した[11]。これに激発した薩摩方の砲台(11台、砲は89門[12])との間で戦闘が開始された。

戦闘詳報

イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘

7月2日(8月15日) - 夜明け前、「パール」、「アーガス」、「レースホース」、「コケット」、「ハボック」の艦隊5隻は、薩摩の蒸気船の天佑丸 (England)、白鳳丸 (Contest)、青鷹丸 (Sir George Grey) を重富の脇元浦(現在の姶良市脇元付近)において、これら3隻の舷側に接舷するとイギリス艦から50, 60人の兵が乱入した[13]。薩摩蒸気船の乗組員が抵抗すると、銃剣で殺傷するなどして3隻の乗組員を強制的に陸上へ排除して船を奪取した[14]。このとき、天佑丸の船奉行添役五代才助(五代友厚)や青鷹丸の船長松木弘庵(寺島宗則)も捕虜として拘禁された[15]

午前10時、捕獲された3隻は[16]、「コケット」、「アーガス」、「レースホース」の各艦の舷側に1隻毎に結わえられて牽引され、桜島の小池沖まで曳航された[17][3]。これをイギリス艦隊の盗賊行為と受け取った薩摩方は7箇所の砲台台場)に追討の令を出す[3]

当時の新聞による戦況図

正午、湾内各所に設置した砲台の中で薩摩本営に最も近い天保山砲台 (Battery Point) へ追討令の急使として大久保一藏(大久保利通)が差し向けられ、到着する間もなく旗艦「ユーライアラス」に向けて砲撃が開始された。一方、対岸の桜島側の袴腰砲台(桜島横山)は城下側での発砲を知ると、眼下のイギリス艦「パーシュース」に対して砲撃を開始した。この砲台の存在を知らなかった「パーシュース」の艦長は、砲台からの命中弾に慌てふためきの切断を下令すると艦はその場から逃走した[18][3]

不意を突かれたキューパー提督は艦隊の戦列を整えるために、桜島小池沖の艦隊5隻へ「ハボック」一艦のみを残し、薩摩船3隻の焼却命令を信号により発令した[18]。イギリス側の乗組員は天佑丸、白鳳丸、青鷹丸から貴重品を略奪すると、砲撃を行った上でこれらの蒸気船3隻に放火し「ハボック」が焼却・沈没を見届けた。

薩英戦争の図(冨山房「大日本読史地図」)

その後イギリス艦隊は戦列を整え、「ユーライアラス」を先頭に単縦陣で、第8台場(祇園之洲砲台)、第7台場(新波戸砲台)、第5台場(辨天波戸砲台)に向けて両舷側の自在砲110ポンドアームストロング砲)を用いて発砲(戦況図参照)。艦隊の107門の砲は21門が最新式の40ポンド・110ポンドアームストロング砲であり、これを用いて陸上砲台(沿岸防備砲・台場)に接近しての砲撃を行った。これに対して薩摩の砲台・台場からの応戦による大砲の発砲は数百発に及び、接近する艦隊に小銃隊も砲撃の合間を縫って狙撃を行った[3]

イギリス艦隊の第8台場(祇園之洲砲台)、第7台場(新波戸砲台)、第5台場(辨天波戸砲台)への攻撃では、精確な射撃により薩摩側の大砲8門を破壊した。薩摩側は、暴雨風の影響による砲台への浸水や、イギリス艦隊の砲に比べると備砲の射程が短いなど性能が劣っているという不利な点もあったが、薩摩砲台に接近する艦隊は午前からの荒天や機関故障により操艦を誤り、薩摩側への有利な戦闘展開となった。薩摩側も、敵艦への突撃・追撃用に上荷船の船首に18斤単銅砲や24斤単銅砲を1門備えた11人乗り小型艇数艘(総数12艘)の水軍隊が辨天波戸から出動し砲撃を試みたが、荒天のため船内への浸水などで退却した。

午後3時前、辨天波戸砲台の29拇臼砲(ボンベン砲:炸裂弾砲の意)の弾丸1発が「ユーライアラス」の甲板に落下[19]、軍議室(艦橋)で破裂・爆発、居合わせた艦長・司令 (Captain Josling) や副長 (Commander Wilmot) などの士官が戦死[3][5]。キューパー提督(司令官)は艦長や指揮官などと居合わせたが、その場から撃ち倒されて共に転落するも左腕に傷を負ったのみで助かった[20]

午後3時10分、祇園之洲砲台に接近して砲撃中の「レースホース」は、折からの強い波浪や機関故障により吹き流され、砲台手前の200ヤードで座礁・擱坐すると大きく傾き、大砲の発砲が出来なくなり小銃で砲台への攻撃を行った[21][22]。しかし、既に祇園之洲砲台の大砲のほとんどが破壊されており、この砲台からの大砲による応戦は行われなかった。また、薩摩側はイギリス艦の座礁とは想定せず、艦から端艇が下ろされたことにより、陸戦は必定と上陸に備えて台場の陰で敵の襲来を待ち構えた。

午後4時頃、イギリス艦隊の3隻(コケット、アーガス、ハボック)は僚艦「レースホース」の救出・援護のために祇園之洲砲台に砲撃を加えながら僚艦の離礁を試みた。これに対して新波戸砲台がイギリス艦隊に盛んに砲撃を加え、「アーガス」に3発の命中弾を浴びせたが、「レースホース」は他の僚艦により曳航され、5時半頃には救出され離礁した[23]

午後7時頃、砲撃戦に不参戦の「ハボック」は単独で砲台のない磯に移動し、停泊中の琉球船3隻と日向国那珂郡赤江船2隻を襲い焼却する。その後、僚艦「パーシュース」も加わり、大砲やロケット弾(火箭)を用いて、近代工場群を備えた藩営集成館の一帯を攻撃し、ことごとく破壊した。攻撃後、2艦は艦隊の停泊する桜島横山村小池村沖に戻った。なお、この時「ハボック」が砲撃した琉球船には、たまたま薩摩へ琉球使節として赴いていた琉球国の王子・与那城朝紀が乗船していた。「ハボック」の砲撃によって被災した際、薩摩の伝馬船に乗って王子は命からがら逃げ出している。

午後8時頃、上町方面の城下では先の「パーシュース」のロケット弾などによる艦砲射撃で火災が迫り、民家(350余戸)、侍屋敷(160余戸)、寺社(浄光明寺、不断光院、興国寺、般若院)などの多くが焼失した[24]

7月3日8月16日)、前日の戦闘で戦死した旗艦艦長や副長などの11名を錦江湾で水葬にする[25]。艦隊は戦列を立て直し、市街地と両岸の台場を砲撃して市街地および島津屋敷を延焼させた(島津屋敷は誤認であり、実際には寺院[26])。また、砲撃により第11台場(赤水台場)および突出台場(天保山砲台)の火薬庫が爆発して、天保山砲台(砂揚場)より反撃があったが、その後台場からの反撃は収まり、沖小島台場からの砲撃に応戦しながら湾内を南下、谷山沖に停泊し艦の修復を行う。 この時、薩摩方により沖小島と桜島(燃崎)の間付近に、集成館で島津斉彬の時代に製造した電気点火装置の水中爆弾3基(地上から遠隔操作)を仕掛けて待ち伏せしていたが、沖小島台場の砲撃によりイギリス艦隊は進路を変更したため近寄らず失敗した。

7月4日8月17日)、艦隊は弾薬や石炭燃料が消耗し多数の死傷者を出し、薩摩を撤退した。その中の一艦(レースホース[8])は艦隊からとも綱を外し、損壊も甚だしく、小根占の洋上に停泊して修理を行っていたが、7月6日(8月19日)夜に他の艦が来て曳航されて行った[3]

7月11日8月24日)、全艦隊が横浜に帰着。

戦闘の結果

薩摩側の砲台によるイギリス艦隊の損害は、大破1隻・中破2隻の他、死傷者は63人(旗艦「ユーライアラス」の艦長ジョンスリングや副長ウィルモットの戦死を含む死者13人、負傷者50人内7人死亡[27])に及んだ。一方、薩摩側の人的損害は祇園之洲砲台では税所清太郎(篤風)[3]のみが戦死し、同砲台の諸砲台総物主(部隊長)の川上龍衛や他に守備兵6名が負傷した[28]。他の砲台では沖小島砲台で2名の砲手などが負傷した[29]。市街地では7月2日に流れ弾に当たった守衛兵が3人死亡、5人が負傷した。7月3日も流れ弾に当たった守衛兵1名が死亡した。物的損害は台場の大砲8門、火薬庫の他に、鹿児島城内の櫓、門等損壊、集成館、鋳銭局、寺社、民家350余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、琉球船3隻、赤江船2隻が焼失と軍事的な施設以外への被害は甚大であり、艦砲射撃による火災の焼失規模は城下市街地の「10分の1」になる。

朝廷は島津家の攘夷実行を称えて褒賞を下した。横浜に帰ったイギリス艦隊内では、戦闘を中止して撤退したことへの不満が兵士の間で募っていた[30]

本国のイギリス議会や国際世論は、戦闘が始まる以前にイギリス側が幕府から多額の賠償金を得ているうえに、鹿児島城下の民家への艦砲射撃は必要以上の攻撃であったとして、キューパー提督を非難している。

イギリス艦艇一覧

1863年8月15日、鹿児島攻撃時の戦闘隊列でのイギリス艦隊を一覧で表す。死傷者の無かったハボック (Havock) は砲撃戦に参加せず、琉球船 (Loochoo I. Junks) 3隻と赤江船2隻を襲う。

さらに見る 艦名, 艦種 ...
艦名艦種建造年トン数乗員
[31]
出力備砲損害
[5][8]
ユーライアラス
Euryalus
フリゲート
蒸気スクリュー
1853年
(改造)
積載量2371トン(bmトン
排水量3125英トン
600
[31]
540
400NHP110ポンドアームストロング砲x5
40ポンドアームストロング砲x8
その他22門
鹿児島砲撃時にカロネード砲x16を追加
戦死10名
負傷21名
パール
Pearl
コルベット
蒸気スクリュー
1855年積載量1469トン(bmトン)
排水量2187英トン
245
[31]
400
400NHP68ポンド砲x1
10インチ砲x20
負傷7名
コケット
Coquette
砲艦
蒸気スクリュー
1855年積載量677トン(bmトン)78
[31]
90
200NHP110ポンドアームストロング砲x1
10インチ砲x1
32ポンド砲x1
20ポンド砲x2
戦死2名
負傷4名
アーガス
Argus
スループ
蒸気外輪
1852年積載量981トン(bmトン)
排水量1630英トン
170
[31]
175
300NHP110ポンドアームストロング砲x1
10インチ砲x1
32ポンド砲x4
負傷6名
パーシュース
Perseus
スループ
蒸気スクリュー
1861年積載量955トン(bmトン)
排水量1365英トン
172
[31]
175
200NHP40ポンドアームストロング砲x5
32ポンド砲x12
戦死1名
負傷9名
内死亡4人
レースホース
Racehorse
砲艦
蒸気スクリュー
1860年積載量695トン(bmトン)
排水量877英トン
103
[31]
90
200NHP110ポンドアームストロング砲x1
10インチ砲x1
32ポンド砲x1
20ポンド砲x2
艦体大破
負傷3名
ハボック
Havock
ガンボート
蒸気スクリュー
1856年積載量232トン(bmトン)50
[31]
37
60NHP68ポンド砲x2なし
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薩摩藩防備一覧

1863年8月15日、鹿児島攻撃時における薩摩藩の防備体制を一覧で表す。

惣物主(総司令官)家老川上式部久美川上但馬久運、惣物主若年寄大目付勤の川上龍衛久齢の下、下記の砲台物主(隊長)が砲台を指揮した[32]

さらに見る 砲台位置, 物主(隊長) ...
砲台位置 物主(隊長) 守衛 攻城砲 野砲 臼砲
砂揚場

(天保山)

島津織之介 四番組士族 7門 2門 2門
大門口 関山糺 三番組士族 3門 4門 1門
南波止 町田少輔 - - 2門 3門
辨天波止 北郷数馬

相良兵部

一番組士族

二番組士族

11門 1門 2門
新波止 川上右膳 五番組士族 7門 3門 1門
祇園洲 島津権五郎 六番組士族 5門 - 1門
桜島横山 肝付兵部 桜島士族 4門 - -
鳥島 肝付兵部 桜島士族 - 3門 -
桜島赤水 肝付兵部 桜島士族 3門 3門
沖小島 青山愚痴 青山門人 5門 10門 -
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戦争の処理

交渉にあたった薩摩側の藩士たち
薩英戦争後にイギリスとの交渉のため集結した島津久治(中央)と家臣たち。後列左から喜入雄次郎、伊集院彦助、伊地知貞馨、相良次太夫、仁礼景範、平田某、江夏蘇助(仲左衛門)、本田恕右衛門、原田淳林、床次正精(正蔵)。前列2名はいずれも不明。

9月28日11月11日) - 第1回和睦の談判、横浜の英国公使館の応接室にて島津家の重野厚之丞(安繹)が主導、補佐として同岩下左次右衛門佐土原島津家の家老樺山久舒(舎人)、能勢二郎左衛門(直陳)などが同席。代理公使ニール大佐との談判では、薩摩側はイギリス艦が薩摩汽船を掠奪した件を追及し、イギリス側は生麦事件を挙げて紛糾・決裂したが、幕府側の仲裁で次回談判を取り決めた。重野らと同行した高崎猪太郎は一橋卿の内命にて京都に居たため同席しなかった。

10月4日11月14日) - 第2回和睦の談判、島津家の岩下、重野は前回と同じくイギリス側の非を責めるが、ニール公使も同様に全く自説を変える様子もなく談判は紛糾・決裂し、次回談判となった。

10月5日11月15日) - 第3回和睦の談判、本家を憂慮する和睦派の佐土原島津家の樺山、能勢らは幕府側の説得を受け入れて薩摩側への和睦を促し、重野らはイギリスからの軍艦購入を条件に扶助料を出すべしと議を決した。イギリス側は軍艦購入の斡旋を承諾した。

島津家は2万5000ポンドに相当する6万300を幕府から借用して支払ったが、これを幕府に返さなかった。また、講和条件の一つである生麦事件の加害者は「逃亡中」として処罰されなかった。

イギリスは講和交渉を通じて薩摩を高く評価するようになり、関係を深めていく(2年後には公使ハリー・パークスが薩摩を訪問しており、通訳官アーネスト・サトウは多くの薩摩藩士と個人的な関係を築く)。薩摩側も、欧米の文明と軍事力の優秀さを改めて理解し、イギリスとの友好関係を深めていった。 このとき、薩摩から蜜柑をイギリス側に渡したため、英国での温州ミカンの名称は「Satsuma」となっている[33][34]

英国議会での議決結果

1864年2月9日の英国下院では、薩英戦争における鹿児島砲撃をめぐり、チャールズ・バクストン議員が政府非難決議案を提出して長時間の討論が行われたが、最終的に本決議は反対多数で否決された[35]

まずバクストンは、クーパー提督個人の「冷血な残虐性」を糾弾するのではなく、「職務理解の誤り」によって鹿児島市街の計画的砲撃と焼き討ちが行われたとみなす立場から、次のような決議案を提示した[36]

すなわち、「本院はクーパー提督に課せられた任務の誤解による行為とみなすにとどめるが、鹿児島の町が焼き払われたことは、文明国の間において慣行となっている戦争の用法に反し、かかる用法を順守することこそ英国の義務であり政策であると深く遺憾の意を表明する」との趣旨であり、彼の意図は①この行為が国際世論、とりわけ日本と関係の深いオランダやアメリカ世論に与えた悪印象を 是正し、人道的国家としての英国の名誉を回復すること、②この種の都市焼き討ちが先例化し、将来の戦争で他国・他将官によって容易に模倣されることを防ぐため、議会が明確に「拒否の意思」を表明し海軍将校に行動基準を示すこと、の二点にあった[37]

そのうえでバクストンは、クーパー提督と駐日代理公使ニールの公文書[38]を引用しながら、①鹿児島攻撃前にクーパーが薩摩使節に対し「交渉が決裂すれば鹿児島はわが軍の慈悲の下にあり、町は破壊される」と警告していたこと[39]、②戦闘後のニール報告が「首府は灰燼に帰し、工場・鋳造所・汽船は破壊され、与えられた指示は文字通りかつ精神において遂行された」と記し、焼き討ちを事故ではなく「達成された成果」として誇らしげに報告していること、③クーパー自身も「火災はなお燃え続けており、町全体が廃墟となったと信じるに足る」と記していることなどから、「鹿児島市街の砲撃・焼失は明白に意図的な作戦行動であり、偶発的延焼とする政府説明は成り立たない」と論じた[40]

さらに彼は、国際法学者ケント、マーテンス、ヴァッテルらの著作を引きつつ、要塞・砲台の攻撃は正当であっても、防御不能な市街地・私有財産の体系的破壊は「絶対的必要」によってのみ正当化されうる特殊な例外に過ぎないとし、鹿児島事例はその要件を満たさないと主張した[41]

また、日本側事情についてもニールやオールコックらの報告[42]を踏まえ、①日本は数世紀にわたり閉国政策のもと自国の秩序と繁栄を維持してきたが、西欧列強の砲艦外交により不本意な条約締結と開港を強いられたこと、②生麦事件の背景には、大名行列に遭遇した外国人を斬殺し得るとする旧来法規や慣行がなお残存し、幕府自身も完全には統制し得ない事情があったこと、③それにもかかわらず、すでに将軍[43]は十万ポンドの賠償金支払いや謝罪など一定の補償措置を講じており、薩摩にも金銭賠償と犯人引き渡しを求めたが、実際には藩主の父が主導した事件であり、親子関係上も政治上も引き渡し要求は非現実的だったこと、を指摘した。

そのうえで、バクストンは「薩摩の軍艦や砲台の破壊、工場の破壊などはなおしも、市街全体を焼き払うことは過剰であり、文明国の戦争慣行から逸脱した」とし、「日本人を『野蛮人』とみなし、欧州列強に対するのとは異なる、より緩い道徳基準を適用すべきだとする発想」こそが、この種の行動を誘発していると批判した[44]

そして、鹿児島は人口約18万の大都市であり、工場や鋳造所、商家、住居が密集する高度に文明化された都市であるとの旅行記・在留英人報告を引用し、砲撃と火災によって数万人に上る子供・老人・病人・妊婦を含む非戦闘員が住居・生業を失い、飢餓と露宿に追い込まれたであろう惨状を想像力を交えて描きつつ、下院には「少なくともこの行為に対し遺憾の意を表明し、将来同様の行為を認めないと宣言する責任がある」と訴えた[45]

これに対し政府側からは、まず海軍本部付政務次官レイヤードが総じて政府弁護の論陣を張り、ニールおよびクーパーの現地判断を擁護した[46]

彼の反論の核心は、①鹿児島攻撃は、1862年生麦事件で殺害されたリチャードソンの殺害犯に対する処罰と賠償金支払いを薩摩が一貫して拒否し続け、さらに鹿児島湾で英国艦隊に対し先に砲火を開いた[47]ことに対する「正当な報復」であり、「自衛権の行使」として国際法上正当化される、②英国政府はすでに幕府から十万ポンドの賠償金を受領したが、薩摩は25,000ポンドおよび犯人の引き渡しを拒んでいたため、「帝国の威信」を維持し、今後の在留欧州人の安全を確保するうえで示威的軍事行動は不可避であった、③市街の大規模延焼は主として木造家屋密集、市街側からの砲撃、気象条件などの複合作用によるもので、クーパーは主として砲台・薩摩藩主邸宅・軍事施設等を目標としたのであり「冷血な市民虐殺」の意図はなかった、という点であった[48]

レイヤードは、 Correspondence の中でニールが鹿児島戦闘を「委任された指示を文字通りかつ精神において執行したもの」と評し、「薩摩の首都は灰燼と化し、工場・鋳造所・汽船が破壊された」と報告している事実を認めつつも、これは「英国臣民の生命と国旗の尊厳が軽視されることはない」ということを日本側に示すための「十分な結果」であり、討議時点で薩摩が最終的に25,000ポンド賠償金支払いと一定の謝罪・通商上の譲歩に応じたことは、当該行動の有効性を実証していると主張した[49]

また彼は、現地の治安状況や各地で発生した外国人襲撃事件を列挙し、「日本は名目上は条約を結んでいるが、幕府と諸藩との権力関係が複雑で、中央政府が自国民を制御できていない」「このような状況下では、英国が自国民を守るために、条約港近傍で強力な軍事力を行使せざるを得ない」と述べ、「過度の自制はむしろ更なる襲撃を招く」と論じた。

財務大臣グラッドストンは、かつてアロー戦争期の広州砲撃に強く反対した経歴を持つが、この討論では政府の対日方針をおおむね支持しつつも、戦争手段の節度については一定の道徳的考慮を示した。

彼は、一般論として私有財産の破壊は極力避けるべきであり、鹿児島のような大都市焼失が「文明国の戦争慣行」に照らして問題を孕むことを認めつつも、決議案の文言はクーパー提督の行為に事実上の非難を加え、ひいては政府が提督を擁護してきた立場との齟齬を生むと懸念した[50]

また、 Correspondence に見られるように、中央政府たる幕府と薩摩など有力大名との間に権限の分裂があり、条約上の義務が実際には履行されない状況下では、ロンドンから遠隔で細部を統制することには限界があると述べ、「決議案のようにロンドンから後知恵で現地指揮官の判断を縛るのは、外交・軍事上危険な前例となる」と論じた。

首相パルマストン卿は、討論の終盤で政府の公式見解を示し、バクストン決議案に明確に反対するよう院内を説得した[51]

彼の主張の中核は、①生麦事件以降、日本各地で英国人に対する襲撃が相次ぎ、Correspondence に収められたニールや前任者オールコックらの報告が示すように、外交文書上の抗議や賠償請求だけでは英国臣民の安全確保が困難であった、②こうした状況で、鹿児島での行動は「帝国の威信[52]」と「在外臣民の生命の保護」を維持するために必要な自衛措置であり、敵対的諸藩や攘夷派に対し「英国は殺害や侮辱を容認せず、必要なら軍事力を行使する」という明確なメッセージとなった、③実際、 Correspondence に示されるように、薩摩は最終的に25,000ポンドの賠償を支払い、英国人保護と通商に関する一定の譲歩を行い、さらにその後の対英関係はむしろ協調的方向に進んでいるため、鹿児島攻撃は結果として成功した抑止行動と評価し得る、という点であった[53]

パルマストンはまた、決議案の文言が「鹿児島の焼失は文明国の戦争慣行に反する」と断じていることを問題視し、「この表現は実質的に政府全体とクーパー提督を国際法違反と断罪するものであり、もし本院がこれを採択すれば、英国が自らの軍事行動を不正と認めた証拠として国外に利用されかねない」と警告した。

さらに彼は、「下院が個別作戦の細部について遡及的に道徳判断を下すようになれば、今後、海外で任務に当たる海軍・陸軍指揮官が、適時の強力な措置を躊躇する事態を招く」として、「個々の判断は政府の責任のもとで検証されるべきであり、議会は一般的原則の提示にとどめるべきだ」と主張し、議案否決を求めた[54]

このほか討論では、野党・政府支持双方から多くの議員が発言し、英国の対日開国政策そのもの、条約港における商人の行動、さらにはインド・中国と日本との比較など、広範な論点が提示されたが、採決時の焦点は、あくまでバクストンの決議案に盛り込まれた「鹿児島焼失への公式な『遺憾表明』」を下院として行うか否かに絞られた。

討論の終結にあたり、バクストン決議案に対しては政府側から修正案や直接の対案は提出されず、原案をそのまま本会議で採決に付することとなった。

採決の結果、決議案賛成は少数、反対が多数となり、鹿児島砲撃を慣行違反としつつクーパー提督には「誤解」をもって責任を限定するというバクストンの非難決議案は否決された[55]

Hansard の記録によれば、票数は賛成40票前後に対し反対数はその約3倍に達し、政府は十分な多数を確保した形で決議案を退けている[56]

この結果、下院は鹿児島砲撃に対して公式な遺憾表明や国際法的違法性の認定を行うことを避け、Correspondence respecting Affairs in Japan, No. 1 (1864) において示された政府の対日方針―すなわち、自衛権の広い解釈と帝国の威信維持を優先しつつ、現地代表と海軍指揮官の裁量に大きく依拠する外交・軍事運用―を事実上追認する形となった。

備考

交渉までの経緯

生麦事件発生以前にも2度にわたるイギリス公使館襲撃(東禅寺事件)などでイギリス国内の対日感情が悪化している最中での生麦事件の発生にジョン・ラッセル外相は激怒し、ニール代理公使及び当時艦隊を率いて横浜港に停泊していた東インド・極東艦隊司令官のジェームズ・ホープ中将に対して対抗措置を指示していた。実は2度目の東禅寺襲撃事件の直後からニールとホープは連絡を取り合い、更なる外国人襲撃が続いた場合には関門海峡大坂湾江戸湾などを艦隊で封鎖して日本商船の廻船航路を封鎖する制裁措置を検討していた。当時、日本には砲台は存在していたが、それらの射程は外国艦隊の艦砲射撃の射程よりも遙かに短く、ホープはそれらの砲台さえ無力化できれば巨大な軍艦の無い江戸幕府や諸家にはもはや封鎖を解くことは不可能であると考えていた。

実際に文久2年11月20日(1863年1月9日)にヴィクトリア女王臨席で開かれた枢密院会議で対日海上封鎖を含めた武力制裁に関する勅令が可決されている。だが、ニールもホープもこの海上封鎖作戦を最後の手段であると考えていた。ニールは、ホープに代わって東インド・極東艦隊司令官となったキューパー少将を横浜に呼び寄せ、文久3年2月4日3月22日)、幕府に生麦事件と東禅寺事件の賠償問題(合計11万ポンド)について最後通牒を突きつけたが、この際に日本を海上封鎖する可能性をわざわざ仄めかしている。

江戸幕府は、フランス公使デュシェーヌ・ド・ベルクールにイギリスとの仲介を依頼し、文久3年5月9日6月24日)にニールと幕府代表の小笠原長行との間で賠償交渉がまとまった。このため、ニールとキューパーは日本に対する海上封鎖作戦を直前に中断した。幕府との交渉が決着したため、続いて実行犯である島津家との交渉のため、ニールとキューパーは薩摩に向かったが、この時点では戦闘の可能性は低いと考えていた。

なお、ホープは海上封鎖を行っても賠償に応じない場合を想定して陸軍と協議して京都・大坂・江戸を占領する計画をも検討していたが、仮に占領可能であったとしても天皇将軍が山岳部に逃げ込んでゲリラ戦に持ち込まれた場合は不利であると結論しており、事実上断念している。また、当時の英国に十分な数の陸兵を日本に派遣する余裕はなかった。実際ニールは横浜防衛のために2000人の陸兵派遣要請をしたが、それすらも拒否されている。

その他、諸説など

アームストロング砲

当時の最新鋭兵器として期待されていたアームストロング砲は、この戦闘で暴発や不発(不発弾)が多い事が実戦で判明したため、イギリス海軍から全ての注文をキャンセルされた。さらに輸出制限も外されて海外へ輸出されるようになり、後に日本にも輸入される原因になったとされる[57]

アームストロング砲(英艦パーシューズ搭載・板橋区熊野町交差点にて展示)

当時の事件を伝える新聞(1863年8月26日鹿児島戦争之英文新聞紙翻訳)では[5]、イギリス艦隊側の負傷者氏名と傷の詳細や戦闘の様子が掲載され、その戦死者の負傷状況などからも破裂弾の着弾爆発による被害を物語っているなど、この新聞記事(従軍記者の記述)ではアームストロング砲の暴発については一切触れられていない。また、旗艦ユーライアラスには薩摩側の臼砲弾などが数発命中し、それらの破裂弾により艦隊全体の死傷者数の4割以上を一つの艦で占めるなど、ユーライアラスでの死傷者は31名に及んでおり[5]、その詳細な状況から砲の暴発があったとしても、被害は限られた範囲の事象と推定できる[注釈 16]

アームストロング砲暴発の拡大解釈を招く事象として、薩摩側の10インチ砲弾によりユーライアラスの甲板に備えた第3番砲が直撃弾を受けており、その砲員らが一度に死傷している[58][59]

異説

  • 薩摩藩は処罰の対象を藩主だと認識していたため交渉は決裂したが、英国側の資料によれば、処罰を求めていたのは事件の現場にいた責任者である。(翻訳を担当した福澤諭吉が急いで原文を直訳した結果、事件の責任者と藩主の区別があいまいになったため)[60]

評価

イギリスによる一方的な、薩摩に対する暴力行為とする同時代の評価がある。

発端となった生麦事件では、アメリカの外交通信文に、

1. イギリス人リチャードソンが、意図的に薩摩藩の大名行列を妨害していた 2.リチャードソンは、日本を中国と同様に植民地扱いする発言をしていた 3.これらの事実は知られていた、とあり、薩摩藩には、全く非がなく、イギリスが一方的に起こした戦争。

生麦事件は、「上海のイギリス人商人」リチャードソンが、川崎近くの生麦という村で、薩摩藩の大名行列を故意に妨害し、切り捨てられるという事件である。手傷を負ったマーシャルとクラークは、助けを求めてアメリカの施設に逃げ込み、ヘップバーン医師が手当をした。アメリカの外交通信書によると、事件直前、マーシャルが、「リチャードソン! 俺たちをトラブルに巻き込むな!」と言い、リチャードソンは「ほっといてくれ。俺は、十四年、中国に住んでるんだ。この連中の扱い方は知ってる」と答えている。[61]


アメリカの外交文書の原文 1064ページからの抜粋

It is known, however, that some time before the attack was made, Mr.

Marshall exclaimed “For God’s sake, Richardson, do not let us have

any trouble!” To which Mr. Richardson replied, “Let me alone; I have lived

in China fourteen years, and know how to manage this people.”

Legation of the United States in Japan, Yedo, January 14, 1863.

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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