史儼

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史 儼(し げん、生年不詳 - 916年)は、末から五代十国時代にかけての軍人本貫代州雁門県[1]

騎射を得意として李克用に仕え、帳中親将となった。勇猛果断なこと衆に抜きんでており、伏兵を設けて生け捕りにするのを得意とした。戦陣に望んで敵をくじき、向かうところみな勝利した。中和3年(883年)、李克用に従って関中に入り、黄巣の反乱軍を攻撃した。乾寧2年(895年)、李克用に従って王行瑜を討ち、軍が渭北に宿営すると、史儼は500騎を率いて石門で昭宗を護衛した。ときに長安は大混乱に陥り、民衆たちの多くは南山に逃げ散っていた。史儼は騎兵を分遣して警戒護衛にあたった。昭宗が長安に帰ったが、反乱軍は手を出せなかった。史儼は功績により検校右散騎常侍となり、三橋に駐屯した[2]

天平軍節度使の朱瑄朱全忠の軍に攻撃されて危機におちいると、李克用に使者を送って援軍を要請してきた。史儼は李承嗣とともに騎兵を率いて黄河を渡って朱瑄を救援した。史儼は騎将の安福順らとともに数千騎を率いて朱全忠の営塁を襲撃し、多くを捕斬した。乾寧4年(897年)、朱瑄が鄆州を失陥し、朱瑾兗州を失うと、史儼は李承嗣らとともに淮南節度使の楊行密を頼った。淮南の人々は水戦を得意としたが、騎射に通じていなかったので、史儼らを得て、軍の勢威は振るうようになった。9月、朱全忠の将の龐師古葛従周が淮南を併呑すべく出撃してくると、史儼は朱瑾や李承嗣らとともに清口汴州の軍を破った。のちに楊行密が鍾伝を併呑し、杜洪を捕らえ、銭鏐を圧迫するのにいずれも参戦し、楊行密の覇業に協力した。妻子を住まわせる邸を与えられて厚遇された。官を歴任して滁州刺史となった。天祐13年(916年)、揚州で死去した[3]

脚注

伝記資料

参考文献

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