李承嗣

From Wikipedia, the free encyclopedia

李 承嗣(り しょうし、866年 - 920年)は、末から五代十国時代にかけての軍人本貫代州雁門県[1]

李佐方の子として生まれた。若くして州に仕え、右職に任じられた。中和2年(882年)、李克用に従って関中に入り、黄巣の反乱軍を討つにあたって先鋒をつとめた。唐の官軍が華陰県を攻撃すると、黄巣が客省使の王汀を派遣して黄巣の弟の黄揆と軍機を討議させようとしたので、承嗣は王汀を捕らえて献上した。中和4年(884年)、反乱軍を陳州許州で攻撃した。黄巣の乱が平定されると、承嗣は功績により汾州司馬に任じられ、楡次鎮将に転じた。李克用が朱全忠汴州の上源駅で襲撃されると、承嗣は成都府に派遣されてそのことを僖宗に訴えた。田令孜が派遣されて慰諭され、承嗣は左散騎常侍に任じられた。光啓元年(885年)、蔡州秦宗権を討つのに従った。光啓2年(886年)、朱玫の乱が起こると、承嗣は軍1万人を率いて鄜州を救援し、渭橋で僖宗を迎えて扈従した。王行瑜が朱玫を殺害すると、承嗣は鄜州と夏州の軍を率いて長安に入り、襄王李熅の宰相の裴澈と鄭昌図を捕らえ、朱玫と襄王李熅の首級を鳳翔府の僖宗のもとに送った。僖宗が長安に帰ると、承嗣は迎鑾功臣の号を受け、検校工部尚書嵐州刺史とされた[1]

僖宗が長安に戻ったばかりで、関中には反乱勢力が多かったため、承嗣は兵を率いて長安の防備にあたった。承嗣が鄜州に帰るにあたって、別将の馬嘉福に500騎を与えて宿衛に留めさせた。昭義軍節度使の孟方立遼州を襲撃すると、承嗣は李克用の命を受けて派遣され、楡社県に伏兵を設けて待ち受けた。昭義軍がやってくると、承嗣は伏兵を現して撃破し、その将の奚忠信を捕らえた、功績により洺州刺史に任じられた。張濬が河東節度使の李克用を討とうとすると、承嗣は一軍を率いて鳳翔府の軍営の霍邑県を攻めた。鳳翔府の軍が夜間に逃走すると、承嗣は趙城県まで追撃した。李克用の軍と合流して臨汾県を攻め、13日で攻め落とした。凱旋すると、検校司徒に転じた[2]

乾寧2年(895年)、天平軍節度使の朱瑄が朱全忠の軍に攻撃されて危機におちいると、李克用に使者を送って援軍を要請してきた。承嗣は李克用の命を受けて3000騎を率いて魏博に道を借り、黄河を渡って朱瑄を救援した。ときに魏博節度使の羅弘信が朱全忠側に寝返って、莘県に駐屯する李存信を攻撃したため、承嗣は太原府との連絡を遮断された。乾寧4年(897年)、朱瑄が鄆州を失陥し、朱瑾兗州を失うと、承嗣は朱瑾や史儼とともに淮南節度使の楊行密を頼った。李克用は趙岳を間道づたいに淮南に派遣して、承嗣らを帰すよう求めた。楊行密はひとたびこれを許した。9月、朱全忠の将の龐師古葛従周が淮南を併呑すべく出撃すると、朱瑾が淮南軍3万を率い、承嗣とともに清口に伏兵を布いて、汴州の軍を破り、龐師古を生け捕りにした。楊行密は承嗣の才能を惜しみ、李克用のもとに返さず、検校太尉・鎮海軍節度使とした。天祐9年(912年)、晋王李存勗が柏郷の戦いで勝利したとの報がに届くと、承嗣は楚州節度使となり、後梁を挟撃する態勢を整えた。天祐17年(920年)7月、楚州で死去した。享年は55[3]

脚注

伝記資料

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI