司空頲

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司空 頲(しくう てい、生年不詳 - 915年)は、末から五代十国時代にかけての官僚本貫貝州清陽県[1]

唐の僖宗のとき、進士科を受験したが、及第しなかった。僖宗が避難し、関中が大乱となると、司空頲は郷里に帰った。羅紹威が魏博節度副使となると、司空頲はその下で掌書記となった。羅弘信に参軍に任じられ、館駅巡官として召された。後梁が建てられると、太府寺少卿となった[2][1]

天祐12年(915年)、張彦が魏博で乱を起こすと、判官の王正言に命じて後梁の君臣をそしる文章の草稿を作らせようとしたが、王正言は文章がもともと得意でなく、兵刃で脅されていたため、筆を下ろすことができなかった。張彦が怒って宿直の者たちに文章を書ける者を推薦させると、ある人が司空頲を推挙した。司空頲は張彦に召し出されて、筆を振るって書き上げると、後梁の君臣をうまく貶していたため、張彦は喜んで司空頲を判官とした。張彦が魏博節度使の賀徳倫を脅して晋王李存勗に降らせると、賀徳倫は司空頲を太原府に派遣して状況を報告させた[3][4]

司空頲は李存勗の下で判官となり、のちに知太原府軍府事をつとめた。司空頲は郭崇韜に憎まれ、たびたび賄賂を受けていると誣告された。また都虞候の張裕に過失が多かったことから、司空頲はしばしば張裕を法で取り締まった。司空頲の甥が後梁におり、司空頲は家奴を派遣して手紙でこの甥を召し出そうとした。張裕がその家奴を捕らえて、司空頲が後梁に通じていると言わせたので、司空頲は李存勗に殺された[3][5]

脚注

伝記資料

参考文献

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