司馬駿
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司馬駿は幼い頃から聡明で慈愛深く、すでに5、6才の頃に文を書いて文書を解釈しながら経典を朗読することができた[1][2]。
景初3年(239年)に斉王の曹芳が皇帝に即位すると、幼年でありながら散騎常侍侍講となり、ほどなく歩兵校尉や屯騎校尉になったが、散騎常侍の官位はもとのままだった[3]。
平陽郷侯に進爵し、地方に出て仮節・都督淮北諸軍事・平南将軍になり、平寿侯に改封されて安南将軍に異動した。
咸熙元年(264年)、東牟侯にうつり、安東大将軍に昇進し、許昌を鎮守した。
泰始元年(265年)12月、汝陰王に進封し、食邑は一万戸で、都督豫州諸軍事となった。
泰始4年(268年)11月、大司馬の石苞が謀略を受けて司馬望に討伐される状況に至ったが、司馬駿が孫鑠に助言をして、石苞は軍権を出して謝罪した。呉の武将の丁奉らが芍陂に進軍した。太尉·義陽王の司馬望が到着する前に安東将軍・汝陰王の司馬駿がこれを攻撃、敗走させた[4][5]。使持節・都督揚州諸軍事にうつり、石苞に代わって寿春を守った。すぐに都督豫州諸軍事に戻って、許昌に帰還した。
泰始6年(270年)7月、使持節・鎮西大将軍・都督雍涼等州諸軍事に昇進して、禿髪樹機能の反乱鎮圧に失敗し職を解かれた兄の汝南王の司馬亮に代わって関中を鎮守し[6]、袞冕侍中の服を加えられた。部下と諸葛亮の人物論を交わしたという[6]。
司馬駿は民衆を心服させるのが上手で、威服と恩恵があり、農業を押し進め、士卒と苦役を分け合い、自分や同僚並びに将帥兵士にいたるまで私有地を十畝に限定し、詳細を上表した。詔がすべての州県に遣わされ、各自が農作業をおこなうことになった。一方、まだ反乱に同調しなかった鮮卑の首領若羅抜能と和親を結び、禿髪樹機能を牽制した。
泰始10年(274年)8月、涼州の蛮族が金城郡に侵攻した。鎮西大将軍・汝陰王の司馬駿がこれを討伐し、その首領の乞文泥らを斬首した。
咸寧元年(275年)5月、禿髪樹機能らが挙兵し、鎮西大将軍・汝陰王の司馬駿が北胡を討伐し、三千あまりの首級を挙げた。
6月、司馬駿は西域戊己校尉の馬循を送り、裏切った鮮卑胡を討伐し、乱を鎮圧し、其渠帥を斬首[7]。
咸寧二年(276年)5月、司馬駿は北胡を撃退し、その首領吐敦を斬首。
7月、鮮卑の阿羅多が国境を侵した。司馬駿は西域戊己校尉の馬循と共に各地で鮮卑らを破っていく。4000人を殺し、9000人の捕虜を捕らえ、阿羅多を降伏させた[8]。 10月、汝陰王の司馬駿を征西大将軍とし、鉅平侯羊祜を征南大将軍とし、この二人には府を開いて招聘することが許され、儀同三司となり、使持節・都督雍涼等州諸軍事はもとのままとされた。
さらに司馬駿に詔が下され、七千人が派遣されて涼州の守備兵と交代になった。禿髪樹機能や侯弾勃たちは先に屯田兵を攻撃しようと企てたが、司馬駿は平虜護軍文鴦に命じて涼州・秦州・雍州の諸軍を率いて各の駐屯地に進軍させて、慰撫させた。
咸寧3年(277年)、禿髪樹機能は配下の二十部を遣わし、侯弾勃は後ろ手を縛って投降し、両者は子を人質として差し出した。安定郡・北地郡・金城郡の諸胡の吉軻羅・侯金多や北虜の熱冏などは二十万の民衆を連れて帰順した。
この年入朝し、8月21日、扶風王に移封され、さらに国境周辺に住む氐族の戸数を増封され、羽葆・鼓吹を賜った。
太康初(280年~286年)、驃騎将軍に昇進し、開府・使持節・都督雍涼等州諸軍事はもとのままとされた。
司馬駿は親孝行で、母の伏太妃が兄の司馬亮の赴任に従ったとき、司馬駿はいつも涙を流して母を思慕し、もし病気だと聞くと、心配のあまり食を断ち、あるときは官に職務を委ねて母のもとを訪ねた。幼い頃から学を好み、著作をよくし、荀顗と仁と孝の前後に関して論じ、文章も評判が高かった。したがって、司馬駿は西晉宗室内で最高の俊傑と期待されたが、この評価は結果的に司馬駿の行動にぴったり合うようになった。
太康3年(282年)、武帝が皇弟の斉王の司馬攸を封国に赴かせようとした際には武帝を諌めたが聞き入れられず、そのため発病したという[9]。
太康7年(286年)、匈奴族の都大博・萎莎などが合流し、おおよそ十万の民に及ぶ各自の部族を率いて扶風王の司馬駿のもとに来て、臣従した[10]。
9月戊寅(286年11月2日)、54歳で死去し、仮黄鉞・大司馬・侍中を追贈された[11]。
西方地域は司馬駿が薨じたと聞くと、泣く者は道に溢れ、民衆は司馬駿のために碑を建てた。長老は碑を見ると拝礼しないことはなかった。司馬駿が死後に遺した仁徳はこのようなものであったのだ。十人の子がいて、中でも順陽王の司馬暢・新野王の司馬歆が最も有名だった。
学問を好み封国で善政を敷いたので、死後に彼を悼んで各地で碑が建てられた。
彼の子孫は永嘉の乱で殺されるか行方不明になっている。
逸話
孫鑠は、若くして県吏となり、太守の胡奮の主簿(会計係)になった。孫鑠は血筋が賤しかったから、名族の同僚たちは、孫鑠に同座を与えなかった。胡奮は大いに怒り、孫鑠を推薦して、司隸都官の從事にした。司隸校尉の劉訥は、孫鑠をとても評価した。 ときの胡奮は、大司馬の石苞にも、孫鑠を推薦した。石苞は、孫鑠を掾とした。
孫鑠が石苞のところに行こうとして、許昌に着いた。許昌では、石苞の謀叛を疑い、ひそかに軽軍を率いて石苞を襲う準備をしていた。 このとき汝陰王の司馬駿が、許昌に出鎮していた。孫鑠は、汝陰王と会った。汝陰王は、孫鑠のことを知っていた。同郷のよしみで(皇族の司馬氏も河内郡出身)、孫鑠に耳打ちした。「禍を與う無し」、石苞の禍に巻き込まれる必要は無いと知らせ、石苞討伐が目的であることを伝えた。
しかし孫鑠はすぐに許昌を出て、寿春まで馳せた。孫鑠は、抵抗せず都亭(郡役所の建物)で罪状を言い渡されるのを待つよう石苞に進言した。結果として、石苞は免官され洛陽に召還されたが、謀叛の疑いは晴れた[12]。孫鑠は尚書郎に遷った。尚書郎に在職のとき、駁議は十有餘事を提出した。同時代の人に称えられた[13]。
劉寶はかつて罪を犯して徒刑の身であったが、司馬駿は彼を500疋の布で身代わりとした後、その後彼を從事中郎に任命したが、それは当時美しいことだと考えられた[14]。
孫楚は若くから卓越した才能があったが、自分の能力を誇るところがあり、人を見下して傲慢な性格で評判が良くなかった。 自分の才能に誇りを持っていた孫楚は、石苞、郭奕などを見下して紛争を起こし、司馬炎(武帝)もその仲裁に気苦労したという。その後、征西将軍になっていた旧知の扶風王の司馬駿に招かれ、その参軍となった[15]。
石苞の息子である石統が扶風王の司馬駿にあえて逆らうことが発生すると、石統の弟である石崇が兄の罪を代わりに謝罪した[16]。