合唱による風土記「阿波」

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合唱による風土記阿波』(がっしょうによるふどきあわ、: Choral Poem in Awa[1])は、1962年昭和37年)11月から12月にかけて、三木稔により作曲された男声合唱組曲である[2][注 1]。作詞は民間伝承の歌詞によるもので、三木稔6作目の合唱作品である[1]

1963年(昭和38年)10月28日文京公会堂において、荒木宏明指揮にて東京リーダーターフェルフェラインにより初演された[1][注 2]。ただし、第3曲「もちつき」だけは、1961年(昭和36年)6月に、磯部俶指揮にて早稲田大学グリークラブにより初演された[2]

作曲者の三木稔は、1930年(昭和5年)徳島県生まれで、東京芸術大学作曲科卒業後、1960年頃から数年間は合唱のために集中的に作品を提供し、合唱作曲家としての顔が最初に知られるようになる[3]

その中において三木には、自身の出身地である「阿波」(徳島県)を題材にした合唱作品の先行作品として、1960年作曲の女声三部合唱とピアノ伴奏による『三つの阿波のわらべ歌』(のちに混声版に編曲されている)があり[1]、これに続く「阿波」を題材にした合唱作品が、1962年発表の男声合唱のための最初の組曲である『合唱による風土記「阿波」』である[3]

作品について

本合唱曲の構成や意図については、出版された楽譜に作曲者の三木の言葉が添えられている[4]

かつての音楽は全て労働に源泉し労働に還元され、思想にも感情にすらも優先したと思われる。この作品に一貫するものはその「労働」であろう。また労働の形態はそれ自体音楽の型式につながり得るものであり、この作品では伝統保存ということよりも、この地方に存在し、または存在した労働の形態から音楽を再創造することに、より多くの努力がはらわれている。したがって、部分的には生の民謡から得られた伝承旋律を使用しながら、多くは全く原型を止めぬものや、架空の旋律で構成されている。

また、三木は第5曲「たたら」の「いつも無理に 頭布をかむり 家で遊びをするよりは」のイメージについて、次のように述べている[5]

これらの歌詞は、私が徳島の民謡の歌詞を収集した中で、《合唱による風土記ー阿波》と言う新しい人格を持った作品を形成するためいろいろ転用したもので、厳密な考証は意味がありません。それぞれ意味としては繋がらなくても「たたら」なら「たたら」の雰囲気をかもし出すのに都合のいいように配置してあります。ここでは、家の中で隠微な遊びをするより豪快なたたら作業をしよう、というくらいに取ってください。

曲目

全5曲からなる。全編無伴奏である。祝祭性の曲 1・3・5と、恋情を歌う曲2・4の構成となっている[4]

  1. たいしめ(鯛締)
    阿波の入口に当る鳴門は、激しい潮流にもまれるがゆえに美味は天下一品と言われており、最盛期には一で数百、数千尾を獲ることができた。鯛締は鯛網を引くことであり、同時に豊漁への祝唄でもある。「ダシタナ」「キリワイエホ」といった掛け声がこの曲の主役で、「ダシタナ」は「どうしたか」の意だが、「キリワイエホ」の意味は不明である。最初の歌詩は「花笠音頭」として有名な、日本全国に流布する子孫繁栄祈願の文句そのものである[2][4]
  2. 麦打ち
    「阿波の北方」と呼ばれる吉野川河口の流域では、江戸時代から明治にかけて表作(夏)には米を作らずを作っていたため、裏作(冬)のが穀物の主体であった。麦打ちは刈り取った麦の穂をいて、ゴザの上に並べ、穀竿を持って向い合い、かわるがわる麦を打つ作業である。曲の掛け声は前半が振り上げ、後半が打ち下しになる。「ヨホホー」は山鳥の鳴声を模したもので、ファルセットまたはそれに類似の発声で歌われる。「いおうほや」は「祝う穂や」、「トヨエー」の「トヨ」は「豊」を意味する。歌詞は男女の会いたい心情を、山鳥や鐘の音に託して歌ったものである[2][4]
  3. もちつき(餅搗)
    吉野川の中流域にある脇町という古い町では、祝いごとの度にいて配る際に、歌が陽旋法英語版三味線陰旋法英語版という奇妙なビトナールドイツ語版の雰囲気で行われる風習がある。歌詞はそのときのお囃しの文句で、祝儀のある家を褒めちぎり、「富貴」「冥加」「鶴亀」などといった縁起の良い言葉をかけている。第四節は「伊勢音頭」の「伊勢へ七度、熊野に三度、愛宕さまには月参り」が誤伝されたものであろう。「ドンタントン」は3人の搗き手の擬音であり、最初はゆっくり始められ、餅が搗き上がるにつれて加速される。「ゴシャシャンノシャンシャン」で手締めをして出来上がり[2][4]
  4. 水取り
    紺がすり藍染め浴衣の原料として古い歴史と品質を誇る阿波藍は、吉野川下流域で稲の替わりに三百数十年にわたって栽培されてきた。藍の苗は5月初旬に畑に移植される。「水取り」は畑に移植した後の灌水のときに井戸から水を汲んできて畑にやる作業であり、苦しい藍栽培の中でも、単調できつい労働だったと思われる。この作品の基となった「水取り唄」は 、ある老婆の声から作曲者の三木により採譜された。そこには娘時代の生気も陽気さもなく、積み重ねられた過酷な労働の訴えに満ちて、旋律線はくずれ果てていた。その陰影を追うように、作品の旋律は作曲者により作為的にデフォルメされて普通の民謡の旋法からはみ出している。歌詞は、作業がきついゆえに気を紛らわすのか、前半はテノールのファルセットで老婆の若き日の恋人と離れたくない気持ちを歌い、後半のバリトンは老爺の若かりし頃の回顧であり、またはぐらかしの春歌でもある[4]
  5. たたら(踏鞴)
    昼の野良仕事を終えた農民たちには、その季節に応じた数々の夜の仕事が残されていた。自家製鉄の「たたら」もその苦役のひとつである。阿波の村々には、寺の鐘などの大きな鋳造の作業のために「たたら組」と呼ばれる組織があった。派手な揃いの衣裳を着こみ、炉の火の高さを競い合うその作業には数万の見物人が出たという。この曲では徳島県下に残るいくつかの「たたら節」「たたら音頭」の中から言葉のみを断片的に選び出し、想像のリズム、想像の旋律によってあたかも原始宗教の儀式のように構成されている。地の神に安全を祈る「東西南北、鎮まりたまえ」で始まり、音頭取りは「浄瑠璃くずし」といわれるさまざまな歌詩を次々に歌ってフイゴ踏みの呼吸を合わせ、踏み手からは酒手(酒代)がたっぶり出るだろうな、という掛け合いも熱く、男声合唱のみが描き得る汗と脂の渦巻く躍動的な祭典の音楽となっている[2][4]

楽譜

楽譜『合唱による風土記 阿波』は、東京音楽社によるほか、1965年にカワイ楽譜(NCID BA47916483)により、また、1982年に音楽之友社NCID BA24852916ISBN 9784276974944外部リンク節参照)により出版されている[1]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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