吉川金次
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1912年に栃木県塩谷郡氏家町(現在のさくら市)で生まれる。実家は鋸鍛冶をしており、金次も氏家尋常高等小学校高等科卒業後は、東京に出て鋸の目立て(すり減った鋸やヤスリなどの目を鋭くする)業を営むようになった[1]。また狂言師の野村万蔵に師事し、能面彫刻なども手がけている[1]。
かつて氏家を訪れた河東碧梧桐の影響もあり、1936年に碧梧桐去って以降の中塚一碧楼が主宰する『海紅』の同人となり、自由律俳句を詠むようになる。金次の自由律は層雲出身で後に新俳句人連盟を立ち上げる栗林一石路や橋本夢道のようなプロレタリア俳句が多く、碧門の多い海紅では異色の作風であり[2]、一碧楼にとっても異質な「愛弟子」であった[1]。また一石路や夢道と同様、思想犯として特高に連行され、その時に拷問で耳を潰されている[2]。そのため生涯、補聴器を欠かせなかった[2]。
晩年は日本の鋸研究の第一人者としても活動。1977年、多岐にわたる創作活動を讃えられ、山岡荘八会長(当時)の東京作家クラブから第十四回文化人間賞が贈られた[1]。1996年、84歳で没。