吉村寿人

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吉村 寿人(よしむら ひさと、1907年2月9日[1] - 1990年11月29日[2])は、日本医学者、生理学者。ヒトの環境適応に関する研究[3][4]蛋白栄養に関する研究[4]をした。日本生気象学会会長[5]、日本栄養食糧学会会長[6]等歴任。

京都大学の正路倫之助(兵庫県立医科大学、後の神戸医科大学初代学長)の元で学生時代を送り、卒業後引き続き助手、講師を務める[4][6]。その後、正路に命じられて満洲731部隊に赴任し、通称「吉村班」で凍傷を防ぐための研究に従事した[7][8][3](昭和13年から)[9](吉村を含め京都大学から8名の若手教官が派遣された)[10]。軍での身分は陸軍技師[11]

戦後京都大学に戻った後、正路倫之助が学長になった兵庫県立医科大学(現在の神戸大学医学部)に移動して研究を続け、その後京都府立医科大学の教授となり、同大学の学長を務めた[4]。京都府立医科大学時代に、葉上照澄が臨んだ千日回峰行の十万枚大護摩供の最中に起こる生体変化を科学的に調査した[12]

国際生物学事業英語版でヒトの適応能の研究に参画した[13]

吉村の残した凍傷実験の記録(一部抜粋)

昭和13年に赴任した満洲では、民族による耐寒性の違いを調べるため、塩水に手を入れさせ水温を零下20度まで下げるなどして、異なる民族の人の手足に凍傷を発生させる実験を行ったと思われる[14][15][3][16]。吉村班の行った実験について、指の肉が削げ落ちるほどの凄惨な実験が行われた、などとする証言がある[17]が、吉村は否定した[18]。吉村は、自分個人が行った凍傷実験は相手の「協力」に基くもので、凍傷に至らない零度での実験だった、などと説明した[18][3]。また、一連の研究は軍属としての任務とは別に自主的な仕事として「部隊長の許し」を得て行ったという[19]

この際赤ん坊を実験に使ったのではないかということが日本学術会議で1974年に問題となった[18]。吉村によれば、それを行ったのは吉村の共同研究者だった[18][3]

侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館に凍傷実験の残酷さを示す人形が展示されている[20]

吉村は後に一連の研究を「局所耐寒性(寒冷適応英語版)の比較民族学的研究」と位置付けている[9]。吉村が凍傷実験の過程で開発したポイントテストと呼ばれる血管反応測定法は、以後広く応用された[4][6]

千田英男は吉村班は凍傷に加えて喝病の実験もしていたとして、次のような目撃談を証言した。「堅牢なガラス張りの箱に全裸の人間を入れ、下から蒸気を注入して人工的に喝病にかかり易い気象条件を作り出して罹患させ、臨床的、病理的に観察しその病因を究明する為のものだった。時間が経過するにつれ全身が紅潮し汗が滝のように流れ出る。いかに苦しくとも縛束されていて身動きもできない。やがて発汗が止る。苦渋に顔がゆがみ、必死に身悶えする、耐えかねて哀訴となり、怒号となり、罵声となり狂声と変って行くあのすさまじい断末魔ともいえる形相は、今もって脳裏にこびりついて離れない。」[21]

吉村は731部隊が細菌戦の研究をしていたことを認めたが、吉村個人は専門外のため細菌戦研究に従事しなかったと述べた[3]

日本学術会議での活動

日本学術会議は1955年南極特別委員会医学部門委員会委員として吉村らを選出した[3]。学術会議内の委員の立場で国際生物学事業英語版 (IBP)に参画。 1964年IBP小委員会幹事[22]

吉村らが満州時代に道義的問題のある行為をしていたとの批判を受け、1973年に日本学術会議は63回総会、七部の「医学者の道義問題小委員会」で報告した[23]。これを不十分な報告であるとする抗議者らにより、審議が妨害された[23]

評価

昭和36年度(1961)日本栄養・食糧学会武田賞[24]、昭和48年度(1973)同功労賞[25]。1978年には、「環境適応学」の先駆的業績を果たした功績に勲三等旭日中綬章が授与された[3]

弟子の森本武利によれば、吉村は「栄養生理学および環境適応に関する日本の生理学を、世界のトップレベルにまで」発展させた[6]

年譜

家族

著書

脚注

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