葉上照澄
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哲学者から新聞記者
岡山県赤磐郡石生村原(現在の岡山県和気郡和気町原)の天台宗・元恩寺住職の葉上慈照の長男として生まれる。小学校一年の時、備前岡山藩主の池田家の寺である金剛山常住寺の弟子となる[1][2]。 1916年(大正5年)9月、岡山県立岡山中学校に進学、1920年(大正9年)第六高等学校 (旧制)の入学試験では数学で満点を取り、首席入学した[3]。二級上に永野重雄、同級生に桜田武がいて、生涯親しい交遊をする。在学中は阿部次郎、中沢臨川や倉田百三の『愛と認識との出発』、西田幾多郎の『善の研究』をはじめ、図書館にある本を読み漁った[4]。
1926年(大正15年)3月、東京帝国大学文学部に入学、当初は倫理学へ入ったが、ドイツ哲学をやっていれば仏教にもプラスになるのではと考え哲学に変わり、伊藤吉之助の指導を受ける。ドイツ観念論の全盛期だったことから、一年の時にフィヒテの伝記をドイツ語で読む。実践を重視する考えだったことから、カントの抽象的観念論、シェリングの藝術的観念論、ヘーゲルの論理的観念論より、カントから一歩出て具体的でなくてはならないというフィヒテに惹かれ、「自我」と「非我」、宗教哲学、無神論について研究する[5][6][7][8]。
卒業後、沢柳政太郎が学長を務める大正大学で専任講師となり、哲学、倫理学、ドイツ語を教える[9]。翌1927年(昭和2年)に教授に昇進した。「スポーツは道徳教育。勉強の嫌いな人間はスポーツをやれ」との考えから、運動部を創設して柔道部の顧問を引き受け、渡辺海旭に揮毫を頼んだ額を道場に掲げた。のちにミュンヘンオリンピックではカヌーの総監督として参加している[10]。
妻との大恋愛は菊池寛の小説『心の日月』として1928年(昭和3年)にキングで一年間連載され、映画化もされたが、33歳の時にその妻に先立たれる。この時、教え子の学生たちが3日にあたって妻のためにお経をあげてくれたことで、真剣にお経を読めば、こんなに人の胸を打つ、胸を打ったら成仏していると信じるようになり仏教に発心、信仰に目覚めるようになる[11]。
1936年(昭和11年)に懇意だった教育総監・渡辺錠太郎(渡辺和子の父)が二・二六事件に遭遇、その時の将校たちが満州で要職につくのをみて嫌になったのと、高齢の母のことを考え、1941年(昭和16年)に岡山県に帰郷する[12][13]。帰郷後は「金剛山塾」と名付けた私塾を作り、六高の生徒を中心に教えた。1942年(昭和17年)、合同新聞(現・山陽新聞社)に入社し、論説委員をつとめる。
1945年(昭和20年)9月2日、ミズーリ号での降伏文書調印式を取材、その後マッカーサー連合国軍最高司令官の「日本人の精神年齢は12歳」という発言を聞き、敗戦した日本と日本人の無力追随に苛立つ。ナポレオンに祖国ドイツを踏みつけられた時に「ドイツ国民に告ぐ」と有名な講演で、ドイツ民族の自覚を促し、教育による国づくりを訴えたフィッテを学んだ人間として、この日本を黙って見過ごしていられない、日本の復興のために若い人を教育するには、まず自分から学び直す必要があると考え、比叡山に入り修行することを決意する[14][15][16]。
比叡山で千日回峰行
1946年(昭和21年)3月、母が義兄弟の約束を結ばせていた「叡山の傑僧」叡南祖賢に導かれ、比叡山無動寺にこもる。1947年(昭和22年)より千日回峰行に入る。酷い近眼だったが、叡南祖賢から「行者には似合わないから眼鏡を外せ」と言われると、回峰行の最中は一切眼鏡をかけなかった[17]。
1949年(昭和24年)弁天堂の輪番となり、1950年(昭和25年)比叡山高校の校長となる。早朝は回峰行者、朝8時になると白装飾にわらじを履いた行者姿のまま学校の講堂に現れて、学生と共に般若心経を読み、訓示して執務をとると、無動寺坂を登って弁天堂に戻り輪番を務めた[18]。
1953年(昭和28年)9月18日、大行満となる。歴代39人目。その後、十万枚大護摩供、3年間で1000日の運心回峰行、3年間の法華三昧行を達成する[19][20]。十万枚大護摩供の時は京都府立大学が、修行中に起こる生体変化を科学的に調査するというので、当時大変な話題となって報道された。十万枚大護摩供の最中に不整脈が生じて、瞳孔が開いている、極限状態だからすぐに注射が必要という吉村寿人教授の申し出を[21]、仏さんにお誓いしたのだから本望と退けての満行だった[22]。
1957年(昭和32年)9月21日、宮沢賢治の生き方に感銘し、25回忌に合わせ根本中堂前に歌碑を建立発願した。賢治が1921年に延暦寺を参詣した際に詠んだ「ねがはくは 妙法如来正遍知 大師のみ旨成らしめたまえ」の歌が刻まれている。
世界宗教サミットを発起
1962年(昭和37年)、東南寺住職としてインドを訪問したことがきっかけとなって、ブッダガヤに印度山日本寺が建立されることになり、後に初代竺主となる。
1967年(昭和42年)に世界連邦日本宗教委員会を結成して会長に就任、指南役として六校の後輩である法眼晋作を副会長に据えて[23]、ローマ・カトリック教会とイスラム教を和解させようと動く。
1975年(昭和50年)、真言宗・高山寺住職を兼任。世界の宗教史上初めてカトリック・聖フランシスコ教会と兄弟教会になる。
1977年(昭和52年)5月、イスラム教最高審議会の招聘により超宗派使節団長としてエジプトを訪問し、サダト大統領と会談し、帰国後に礼状に添えて、旧約聖書による同じアブラハムの子孫であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教の対話を進言した書簡を送った。翌年にはカイロ大学に日本語学科創設に動き、カイロ大生を日本へ招き、寺に泊めて日本を学ばせた。2年後の1979年(昭和54年)にエジプト・イスラエル平和条約が締結された際、シナイ半島返還式典においてイスラム教、ユダヤ教、キリスト教の三教の合同礼拝がおこなわれた[24][25]。
1978年(昭和53年)4月にバチカンの諸宗教連絡聖省の長官・ピネドリー枢機卿との雑談の中で、日本バチカン宗教代表者会議の開催について合意する[26]。この年の7月、ローマ郊外のネミ湖畔で日本バチカン宗教代表者会議が実現、日本側代表として徳川宗敬神社本庁統理、長沼基之立正佼成会理事長らとともに出席する。
会議終了後、ローマ教皇・パウロ6世と接見し、「私たち日本の宗教家はいまエジプトで、イスラム教と手を組んで中近東の平和、そして世界平和の道を模索しております。バチカンもユダヤ教とお話合いいただき、手を組んで世界の全宗教者の力で、少なくとも今年のクリスマスまでは、絶対に戦争を拡大させぬよう、共に努力をしようではありませんか。」と提言する。パウロ6世は葉上の合掌した手を包むようにして、「私たちは異宗教を尊重しあうだけでは十分ではありません。お互いが尊敬しあえるように、自分を高めてまいりましょう。」と、ともに平和のために働くことを誓いあう[27]。その10日後にパウロ6世が急逝するが、パウロ6世の言葉を遺言と受けとめ宗教サミット開催実現に傾注した[28][29]。1980年(昭和55年)11月、高山寺を訪問された浩宮殿下をご案内する[30]。
1982年(昭和57年)5月30日、ニューヨーク大聖堂において世界平和を実現するためには、宗教および宗派を超えた協力が必要であるとの法話をする。
その帰路、ハワイ・真珠湾のアリゾナ記念館を訪問し、真珠湾での慰霊祭を発願。帰国後、駐日米国大使館と談判し、慰霊式典の開催を決定させると、同年12月7日に第一回のハワイ平和祈念使節団を派遣する。
1984年(昭和59年)にはシナイ山においてアメリカ、イスラエル、エジプト、日本の各宗派参加の合同礼拝を実現させる。
日本国際青年文化協会を設立した時には、第六高等学校、東京帝国大学の仲間だった桜田武(日経連会長)が、「小生が敬愛し、同学の友である葉上照澄大僧正は、宗教者の大悲願である世界平和のため、全世界のもろもろの宗教者が一致協力し、世界宗教連盟を創るべく尽力しております。そのためにまず学生・青年層による世界の伝統文化の交流を志され、インド、エジプトの間で十数年間に及び着実に成果をあげております。我が国が国際社会の一員として友好親善の実をあげるために、本協会の活動が必須条件であると確信するものであります。」と、経済界宛に懇切丁寧な書面をしたため、捺印して支援を要請した[31]。
現実に悩む民衆が多くいる中で、仏教はもっと民衆の本当の心、現実の苦しみや痛みに答えるべきであると考え、実践を重視した。高山寺の住職として、明恵上人の七百五十回忌の事業として、井上靖が詞書、入江相政侍従長が筆書、平山郁夫が坐禅像を描いた絵巻を作成[32]、河合隼雄と『夢記』について、久保田一竹と『華厳宗祖師絵伝』について対談した[33]。
1985年(昭和60年)、滋賀院門跡門主を拝命、12月にはインド・ニューデリーでシン大統領と会談、 1986年(昭和61年)には聖フランチェスコの出身地であるイタリア共和国のアッシジでの「世界平和祈りの集い」で、ヨハネ・パウロ2世、ダライ・ラマらと平和の祈りを捧げ、翌1987年(昭和62年)比叡山で世界宗教サミットを開催した。 1989年(平成元年)3月7日遷化。
著書
単著
- 『倫理学概説』同文社、1948年
- 『雲海―歌集』初音書房、1961年
- 『道心』春秋社、1971年
- 『道心 回峰行の体験』(前記の増補版)春秋社、1974年
- 『願心 わが人生を語る』法蔵館、1986年
- 『比叡山のこころ<カセット+テキスト>』朝日新聞社事業開発室、1986年
- 『遊心―21世紀へのメッセージ』善本社、1987年、ISBN 978-4793902055
- 『比叡山のこころ 一隅を照らす』朝日出版社、1988年、ISBN 978-4255880631
- 『回峰行のこころ―わが道心』春秋社、1997年、ISBN 978-4393133224
共著
- 『古寺巡礼 京都 15』(井上靖との共著)淡交社、1977年、ISBN 978-4473004758
関連書籍
- 高瀬広居著『仏心 : 現代の名僧をたずねて』双葉社、1973年
- 『残照―葉上阿闍梨追悼集』葉上阿闍梨追悼集刊行委員会、1990年、ISBN 978-4793902482
- 高瀬広居 著『仏音 : 最後の名僧10人が語る「生きる喜び」』朝日新聞社、2002年、ISBN 4-02-257769-X
- 横山照泰 編『伝説の葉上大阿闍梨』善本社、2019年、ISBN 978-4793904813
- 『葉上照澄阿闍梨の法音講演録: 令和三年・三十三回忌報恩記念出版』USS出版、2020年、
- 山田恭久編『戦後初の北嶺千日回峰行者 叡南祖賢大阿闍梨 叡南覺範・村上光田・藤光賢・堀澤祖門が語る比叡山の傑僧』善本社、2023年、ISBN 978-4793904912
テレビ番組
- 「わたしの自叙伝」出演:葉上照澄 〜敗戦と千日回峰行〜NHK