吉田君太郎
From Wikipedia, the free encyclopedia
| 吉田君太郎 よしだ きみたろう | |
|---|---|
| 生年月日 | 1868年10月6日 |
| 出生地 |
(現・八頭町) |
| 没年月日 | 1950年8月25日(80歳没) |
| 出身校 | 小学校 |
| 前職 | 安部村収入役 |
| 称号 | 勲七等青色桐葉章 |
| 子女 | 長女・倭文恵、二女・みどり、三女・富美子、二男・耕司、四男・吉田四郎 |
安部村会議員 | |
| 当選回数 | 2回 |
安部村長 | |
| 在任期間 |
1903年9月14日 - 1904年11月18日 1904年12月2日 - 1905年4月28日 |
八頭郡会議員 | |
| 在任期間 | 1903年 - ? |
吉田 君太郎(よしだ きみたろう、1868年10月6日〈明治元年10月6日[1][2]〉- 1950年〈昭和25年〉8月25日)は、日本の地方政治家。鳥取県八頭郡安部村(現在の八頭町)出身。大正期に安部村長を務め、教育・農業・地域金融の振興に尽力した[1]。
出生
1868年(明治元年)、父・吉田荘三郎と母・ふきの長男として、八頭郡安部村安井宿にて誕生し、小学校卒業後は農業に従事した[3]。
日清戦争への従軍
1888年(明治21年)徴兵。1889年(明治22年)に近衛歩兵第3連隊に入隊し、1901年(明治24年)に満期除隊[4]。1902年(明治25年)1月に実施された、鳥取県八上他ニ郡徴兵優待式の様子を報じた記事に、「昨年満期帰郷せし近衛兵吉田君太郎他十七名に対し慰労金百七円を贈興したり」と記述が残る[5]。その後、1894年(明治27年)から1895年(明治28年)にかけ日清戦争に従軍した[6]。日清戦争では、陸軍軍曹として台湾へ従軍した。
八頭郡会議員から安部村長へ
戦後、1896年(明治29年)11月から1898年(明治31年)まで、安部村収入役を務め、1903年(明治36年)に八頭郡会議員、同年9月14日に安部村長に選出された[7]。1904年(明治37年)11月18日に、臨時招集により安部村長を辞任したが、同年12月2日に再度当選し、1905年(明治38年)4月28日に退任した[8]。
地域経済への関与
1909年(明治42年)の安部信用組合の設立に際しては監事として[9]、1919年(大正8年)の鳥取自動車設立に際しては取締役として[10]、安部信用購買販売組合では組合長を務め、地域経済の安定化に貢献したほか、1909年(明治42年)9月15日付の『官報』には蚕糸業組合への関与も記録されている[11]。また、1932年(昭和5年)の国鉄若桜線・安部駅の設置にも貢献した。
人物
「頌堂(しょうどう)」の号を持ち、短歌や詩文の創作にも親しんだ。自然や人物への思いを詠んだ作品が残されており、地域文化活動の一環として文芸にも関与していた[12]。安部駅設置に関連し、以下の一首が残されている。
八十かさねて のこすものとてさらになし かたみとおもふは 駅道具なり