吉田栄右 From Wikipedia, the free encyclopedia 吉田 栄右(よしだ まさすけ、1865年8月21日(慶応元年7月1日) - 1944年(昭和19年)4月17日)は、日本の実業家、教育者。常盤生命保険株式会社(現・朝日生命保険)元支配人、元専務取締役、紐育(ニューヨーク)生命保険会社元日本支店長。実業界に入る前には、学習院大学、東洋協会専門学校(現・拓殖大学)、水産講習所(現・東京海洋大学)等で教鞭を執った。聖公会の信徒[1][2]。 1865年8月21日(慶応元年7月1日)、石州浜田藩士の吉田保(1834年(天保5年4月16日)〜1907年(明治40年)9月8日)と母志ゆん(同藩士三浦兼義二女、1847年(弘化4年9月)〜1929年(昭和4年)10月27日)の長男として生まれる。祖父は同藩士の吉田傳右衛門則明。父は和歌・俳諧・茶道・華道に通じ、廣道庵保雪と号し、また洗礼名はヨハネとした[1][3]。 1891年、92年(明治24年、25年)頃、英語を学び始め、立教学校(現・立教大学)に入学し、杉浦貞二郎(後の立教大学学長)が同級であった[1][4]。 栄右が入学する前の1890年(明治23年)に立教大学校は欧化主義への反動から、校名を立教学校に戻しており、現在に続く立教大学は、栄右が学んでいた時期には、まだセント・ポール英語学校と呼ばれ校舎は池袋ではなく築地にあった。英語を勉強しようにも、英語学習書など全くない時代でもあった。青年時代の栄右は、経済的にあまり豊かでなかったことから、満足な学生生活が送れず、ほぼ毎日働いた。そのため、英語学校を辞め、夜学に通い、その合間にはキリスト教の伝道にも携わった[4]。 慶應義塾、国民英学会、聖安督烈学院(聖安得烈学院、現・聖公会神学院の前身の一つ)でも学んだ[1]。 伝道も板につき、遂に聖十字教会主であったアーサー・ロイドに見込まれるところとなり、1894年(明治27年)に英国のケンブリッジ大学に留学し、神学科、史学科、経済科で数年間学び、1898年(明治31年)に日本に帰国した[1][4]。 帰国したのち、牧師生活を始めたが、数年足らずで止めなくてはならなくなり、以後実業界に身を置くことなるが、その間、学習院、東洋協会専門学校(現・拓殖大学)、水産講習所(現・東京海洋大学)等でも教鞭を執ったが、1903年(明治36年)に実業界に入った[1][4]。 紐育(ニューヨーク)生命保険会社日本支店長(事務長)を務めるが、常盤生命保険株式会社(現・朝日生命保険)の創立に際して選任されて取締役支配人となり、同社常務取締役、同専務取締役を歴任し、社務の発展に務めた[1][3][5][6]。 母校である立教学院校友会の顧問も務め、1928年(昭和3年)に設立された立教学院後援会でも顧問を務めた[7]。吉田家の墓所は当初青山霊園に営まれたが、関東大震災後の区画整理により多磨霊園6区2種に改葬され、昭和19年同地に葬られた。 家族 住所:東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町千駄ヶ谷419 妻 みよ:盛岡市の平民瀬川長蔵[8]の長女。1870年3月18日生。函館の遺愛女学校卒業。数理に通じ、洋楽も嗜んだ。1928年7月20日没。享年57。 長男 栄一 次男 健二 脚注 [脚注の使い方] 1 2 3 4 5 6 7 名古屋大学大学院法学研究科『人事興信録』データベース 第8版 ↑ 「「基督教週報」にみる本校関係記事・広告」『桃山学院年史紀要』第2号、桃山学院、1981年3月、94-107頁、ISSN 0285-1725。 1 2 名古屋大学大学院法学研究科『人事興信録』データベース 第4版 1 2 3 4 『立教大学新聞 第53号』 1927年(昭和2年)6月15日 ↑ 一般社団法人生命保険協会『生命保険会社変遷図』 ↑ 『立教大学新聞 第51号』 1927年(昭和2年)4月15日 ↑ 『立教大学新聞 第72号』 1928年(昭和3年)12月5日 ↑ 柔術家・瀬川正三郎の一族 典拠管理データベース 全般 VIAF 国立図書館 アメリカ 日本 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。表示編集 Related Articles