吉野丸

From Wikipedia, the free encyclopedia

吉野丸
基本情報
船種 貨客船
クラス 将軍級客船ドイツ語版
船籍 ドイツ帝国
大日本帝国の旗 大日本帝国
所有者 北ドイツ・ロイド英語版
日本郵船
近海郵船
運用者 北ドイツ・ロイド英語版
日本郵船
近海郵船
 大日本帝国陸軍
建造所 シーヒャウダンツィヒ造船所[1]
母港 ブレーメン
東京港/東京都
姉妹船 将軍級客船ドイツ語版10隻[注 1]
信号符字 SHWF→JODD
IMO番号 28457(※船舶番号)
改名 Kleist→吉野丸
経歴
進水 1906年12月3日[1]
最後 1944年7月31日 被雷沈没
要目
総トン数 8,990トン(1938年)[1]
純トン数 5,512トン(1938年)[1]
載貨重量 8,735トン(1938年)[1]
排水量 16,236トン(1938年)[1]
登録長 141.27m(1938年)[1]
垂線間長 141.02m
型幅 17.55m(1938年)[1]
登録深さ 11.86m(1938年)[1]
高さ 29.2m(水面からマスト最上端まで)
9.4m(水面から船橋最上端まで)
12.1m(水面から煙突最上端まで)
ボイラー 石炭専焼缶
主機関 四連成レシプロ機関 2基
推進器 2軸
出力 7,000馬力(1938年・実馬力)[1]
最大速力 17ノット(1938年)[1]
航海速力 12ノット(1938年)[1]
航続距離 13ノットで3,800海里
旅客定員 1938年
一等:18名
二等:77名
三等:172名[1]
乗組員 159名(1938年)[1]
1938年10月25日徴用
高さは米海軍識別表[2]より(フィート表記)
テンプレートを表示

吉野丸(よしのまる)は、近海郵船が台湾航路で運航した貨客船である。前身は北ドイツ・ロイド社の貨客船クライストドイツ語: Kleist)で、第一次世界大戦の戦時賠償として日本が取得した。太平洋戦争中期には病院船として運用されたが、戦争後期には軍隊輸送船に用途変更となり、1944年にアメリカ海軍潜水艦に撃沈されて約2500人の大量死者を出した。

同型船「ヨルクドイツ語版」の船影。

本船は、1906年(明治39年)、ドイツのシーヒャウ英語版社のダンツィヒ(現在のグダニスク)造船所で貨客船として建造された[1]船主北ドイツ・ロイド英語版社(NDL)で[3]、同社の将軍級客船ドイツ語版の一隻として「クライスト」と命名される。

「クライスト」の基本設計は、ドイツとオーストラリア・極東を結ぶ航路用の中型客船で、外観は3層の長い上部構造物に細長い1本煙突、傾斜した2本のマストを備えた[4]総トン数は約9000トンで、石炭焚きの四連成レシプロ機関2基により、スクリュー2軸を駆動して最高速力17ノットを発揮した[1]。この当時の北ドイツ・ロイド社は、1897年進水の「カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ」(約14000総トン)を皮切りに、1903年進水の「カイザー・ヴィルヘルム2世」(約19000総トン)など高速大型客船を大西洋航路に次々と就航させており[5]、それらに比べると「クライスト」は小型であった。

竣工した「クライスト」は、予定どおり、主にスエズ運河経由でドイツとシンガポール香港上海港神戸港横浜港を結ぶ極東航路に配船された[4]。1907年(明治40年)後半以降、毎年数回は神戸や横浜に寄港している[4]

1914年(大正3年)7月の第一次世界大戦勃発時も「クライスト」は極東航路に就航していた。ドイツとイギリスの開戦直前にドイツの船会社は、自社の所属船舶にイギリス領の港湾を離れるよう指示した[6]。「クライスト」は、中立国のオランダ領東インドに属するパダンのエマハーフェン港(現在のテルク・バユール港英語版)に避難して戦争期間を過ごした。同年11月にドイツ巡洋艦「エムデン」の生き残り乗員が操縦するスクーナーアイシャドイツ語版」がエマハーフェン港に立ち寄った際には、「クライスト」の乗員たちが煙草やワインなどを分け与えて歓迎している[7]。ただし、大内健二は、第一次世界大戦中の「クライスト」はバルト海の港に係留されていたとする[4]。1919年(大正8年)に第一次世界大戦がドイツの敗戦で終わると、「クライスト」はイギリスに回航された。

日本客船吉野丸

脚注

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI