吉野丸
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| 吉野丸 | |
|---|---|
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| 基本情報 | |
| 船種 | 貨客船 |
| クラス | 将軍級客船 |
| 船籍 |
|
| 所有者 |
北ドイツ・ロイド 日本郵船 近海郵船 |
| 運用者 |
近海郵船 |
| 建造所 | シーヒャウダンツィヒ造船所[1] |
| 母港 |
ブレーメン 東京港/東京都 |
| 姉妹船 | 将軍級客船10隻[注 1]。 |
| 信号符字 | SHWF→JODD |
| IMO番号 | 28457(※船舶番号) |
| 改名 | Kleist→吉野丸 |
| 経歴 | |
| 進水 | 1906年12月3日[1] |
| 最後 | 1944年7月31日 被雷沈没 |
| 要目 | |
| 総トン数 | 8,990トン(1938年)[1] |
| 純トン数 | 5,512トン(1938年)[1] |
| 載貨重量 | 8,735トン(1938年)[1] |
| 排水量 | 16,236トン(1938年)[1] |
| 登録長 | 141.27m(1938年)[1] |
| 垂線間長 | 141.02m |
| 型幅 | 17.55m(1938年)[1] |
| 登録深さ | 11.86m(1938年)[1] |
| 高さ |
29.2m(水面からマスト最上端まで) 9.4m(水面から船橋最上端まで) 12.1m(水面から煙突最上端まで) |
| ボイラー | 石炭専焼缶 |
| 主機関 | 四連成レシプロ機関 2基 |
| 推進器 | 2軸 |
| 出力 | 7,000馬力(1938年・実馬力)[1] |
| 最大速力 | 17ノット(1938年)[1] |
| 航海速力 | 12ノット(1938年)[1] |
| 航続距離 | 13ノットで3,800海里 |
| 旅客定員 |
1938年 一等:18名 二等:77名 三等:172名[1] |
| 乗組員 | 159名(1938年)[1] |
| 1938年10月25日徴用 高さは米海軍識別表[2]より(フィート表記) | |
吉野丸(よしのまる)は、近海郵船が台湾航路で運航した貨客船である。前身は北ドイツ・ロイド社の貨客船クライスト(ドイツ語: Kleist)で、第一次世界大戦の戦時賠償として日本が取得した。太平洋戦争中期には病院船として運用されたが、戦争後期には軍隊輸送船に用途変更となり、1944年にアメリカ海軍潜水艦に撃沈されて約2500人の大量死者を出した。

本船は、1906年(明治39年)、ドイツのシーヒャウ社のダンツィヒ(現在のグダニスク)造船所で貨客船として建造された[1]。船主は北ドイツ・ロイド社(NDL)で[3]、同社の将軍級客船の一隻として「クライスト」と命名される。
「クライスト」の基本設計は、ドイツとオーストラリア・極東を結ぶ航路用の中型客船で、外観は3層の長い上部構造物に細長い1本煙突、傾斜した2本のマストを備えた[4]。総トン数は約9000トンで、石炭焚きの四連成レシプロ機関2基により、スクリュー2軸を駆動して最高速力17ノットを発揮した[1]。この当時の北ドイツ・ロイド社は、1897年進水の「カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ」(約14000総トン)を皮切りに、1903年進水の「カイザー・ヴィルヘルム2世」(約19000総トン)など高速大型客船を大西洋航路に次々と就航させており[5]、それらに比べると「クライスト」は小型であった。
竣工した「クライスト」は、予定どおり、主にスエズ運河経由でドイツとシンガポール、香港、上海港、神戸港、横浜港を結ぶ極東航路に配船された[4]。1907年(明治40年)後半以降、毎年数回は神戸や横浜に寄港している[4]。
1914年(大正3年)7月の第一次世界大戦勃発時も「クライスト」は極東航路に就航していた。ドイツとイギリスの開戦直前にドイツの船会社は、自社の所属船舶にイギリス領の港湾を離れるよう指示した[6]。「クライスト」は、中立国のオランダ領東インドに属するパダンのエマハーフェン港(現在のテルク・バユール港)に避難して戦争期間を過ごした。同年11月にドイツ巡洋艦「エムデン」の生き残り乗員が操縦するスクーナー「アイシャ」がエマハーフェン港に立ち寄った際には、「クライスト」の乗員たちが煙草やワインなどを分け与えて歓迎している[7]。ただし、大内健二は、第一次世界大戦中の「クライスト」はバルト海の港に係留されていたとする[4]。1919年(大正8年)に第一次世界大戦がドイツの敗戦で終わると、「クライスト」はイギリスに回航された。