周参見氏長 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代 - 江戸時代初期生誕 生年不詳死没 没年不詳(一説に慶長7年12月29日(1603年2月9日))別名 主馬助[1][2]、主馬首(頭)[1][3]、主馬大輔(大夫・太夫)[2][4] 凡例周参見 氏長時代 戦国時代 - 江戸時代初期生誕 生年不詳死没 没年不詳(一説に慶長7年12月29日(1603年2月9日))別名 主馬助[1][2]、主馬首(頭)[1][3]、主馬大輔(大夫・太夫)[2][4]戒名 義昭忠顕大居士[4]主君 豊臣秀長→秀吉→秀頼→藤堂高虎藩 津藩氏族 周参見氏父母 父:周参見氏安兄弟 氏長、安親(源左衛門[4])子 氏康[注 1]テンプレートを表示 周参見 氏長(すさみ うじなが)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。紀伊国周参見城主。 周参見氏安の子として生まれる。周参見氏は紀伊国牟婁郡周参見荘(現在の和歌山県西牟婁郡すさみ町周参見)の国人で[5]、もとは藤原姓を称し、治承年間(1180年頃)に阿波国より紀伊水道の海賊の抑えとして周参見に城を構えたという[6]。 天正13年(1585年)、氏長は豊臣秀吉の紀州征伐に敗れるも周参見荘8ヶ村、佐本郷、古座川など1,700石[注 2]を安堵されて豊臣秀長に属した[1][7]。 その後、朝鮮派兵では九鬼嘉隆とともに出動し[1][7][注 3]、慶長3年(1598年)9月に日高郡山地で一揆が起こった際には増田長盛の命を受けて日高郡・牟婁郡の領主たちとともに一揆の鎮圧にあたり、首2つを挙げている[8]。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属したため子の氏康とともに捕らえられて京に入牢し[6]、慶長7年(1603年)12月29日に牢死したとされるが[4][注 4]、後に1,000石で藤堂高虎の家臣となり、大坂の陣では城代として津城を守ったともいう[1][7]。 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ↑ 『すさみ町誌 上巻』では嫡子の名を一之丞としており、関ヶ原の戦い後、有田郡石垣荘楢原村に蟄居したというが[4]、氏康と同一人物かは不明。 ↑ または2,000石とも[6]。 ↑ 『吉備町誌 下』によると、慶長2年(1597年)7月、氏長は水軍として朝鮮に出兵し、孫の市之丞とともに李舜臣と戦ったという[6]。ただし、九鬼嘉隆は慶長の役には出陣していないので、時期が合わない。 ↑ 氏康は慶長7年(1602年)に病死したという[6]。 出典 1 2 3 4 5 高柳 & 松平 1981, p. 126. 1 2 阿部 1990, p. 433. ↑ 和歌山県史編さん委員会 1994, p. 692. 1 2 3 4 5 すさみ町誌編さん委員会 1978, p. 299. ↑ 森岡 2013, p. 307. 1 2 3 4 5 吉備町誌編纂委員会 1980, p. 722. 1 2 3 阿部 & 西村 1990, p. 433. ↑ 和歌山県史編さん委員会 1994, p. 691-692. 参考文献 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』(増訂版)吉川弘文館、1981年、126頁。 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、433頁。ISBN 978-4404017529。 和歌山県史編さん委員会 編『和歌山県史』《中世》和歌山県、1994年、691-692頁。 すさみ町誌編さん委員会 編『すさみ町誌』 上巻、すさみ町、1978年、299頁。 森岡浩『戦国大名家辞典』東京堂出版、2013年、307頁。ISBN 978-4490108217。 吉備町誌編纂委員会 編『吉備町誌』 下、吉備町、1980年、722頁。 Related Articles