周埈年
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| The Honourable Sir 周埈年 Tsun-nin Chau 爵士 議員 | |
|---|---|
| 香港行政局非官守議員 | |
| 任期 1938年6月29日 – 1938年 | |
| 任命者 | サー・ジョフリー・ノースコート |
| 前任者 | ロバート・コートウォール |
| 後任者 | ロバート・コートウォール |
| 任期 1946年 – 1959年5月28日 | |
| 任命者 | サー・マーク・ヤング |
| 後任者 | 羅文恵 |
| 香港立法局非官守議員 | |
| 任期 1931年12月2日 – 1939年12月1日 | |
| 任命者 | ウィリアム・ピール ウィルフリッド・トーマス・サウザン サー・ジョフリー・ノースコート |
| 前任者 | 周寿臣爵士 |
| 後任者 | 譚雅士 |
| 任期 1946年5月1日 – 1953年4月29日 | |
| 任命者 | サー・マーク・ヤング |
| 個人情報 | |
| 生誕 | 1893年10月22日 Template:HKG-1876 |
| 死没 | 1971年1月27日(77歳没) |
| 墓地 | 香港仔華人永遠墳場 |
| 親戚 | いとこ:周錫年 |
| 子供 | 周湛燊 |
| 親 | 父:周少岐 母:葉氏[1] |
| 出身校 | 聖士提反書院 オックスフォード大学 クイーンズ・カレッジ |
| 職業 | 行政立法両局首席議員、紳商 |
| 専業 | 大律師 |

周 埈年爵士,CBE,JP(しゅう しゅんねん、英語: Sir Chau Tsun-nin、イェール式広東語: Jāu Jeun nìhn、1893年10月22日 — 1971年1月27日)は、香港の富豪であり、華人領袖の一人。かつてはバリスターとして活動し、第二次世界大戦前には潔浄局局紳および立法局非官守議員などの公職を歴任した。戦後も香港政府により立法局および行政局の首席非官守議員に任命された。また、周は広東信託銀行の董事長(会長)も務めたが、同行は1965年の株式市場暴落により破綻し、香港経済に動揺を引き起こした。
前半生
周埈年は広東省東莞を祖籍としており、1893年10月22日にイギリス領香港で、香港の富豪であり立法局非官守議員も務めた周少岐太平紳士と、その側室である葉氏との間に生まれた。埈年は少岐の第七子であったため「七哥」の通称で呼ばれていたが、実際には上の六人の兄はすべて夭折していた。また、従弟には埈年と同様に香港の行政局および立法局で非官守議員を務めた周錫年爵士がいる。
埈年は聖士提反書院に入学、1910年に卒業後、イギリス・オックスフォード大学のクイーンズ・カレッジにて法学を修め、1914年に卒業した。その後、ミドル・テンプルにてバリスター(法廷弁護士)の資格を取得し、さらにオックスフォード大学にて文学修士の学位を取得している。
1914年に香港に戻ると、周はバリスターとして数ヶ月働いたものの、すぐに辞めてしまい、周一族の事業に関わることとなった。金融や保険業界で働く中で、急速に華人社会の領袖として台頭した。周は当初安全火燭保險公司[いつ?]、香港九龍置業按揭公司の総経理[いつ?]、および裕安輪船公司監督に就任し[いつ?]、後には油蔴地小輪公司[いつ?]、中華娯楽置業公司[いつ?]、第一人寿保険公司[いつ?]、広東信託銀行[いつ?]等の董事長に就いたほか、香港電燈公司[いつ?]、香港電話公司[2]、中華百貨公司[いつ?]及香港船廠公司[いつ?]等の董事を務めた。
公職生涯
華人領袖として、周埈年は1922年に香港政庁から非官守太平紳士に任命され、その後1929年には潔浄局(市政局の前身)の局紳(議員)に任命された。1931年には、当時の香港総督サー・ウィリアム・ピールより引退した周寿臣爵士の後任として立法局非官守議員に任命され、同年12月10日に正式に就任宣誓を行なった。これにより、彼は香港史上初めて、親子二代続けて立法局議員となった人物となった。1937年1月には曹善允博士の後を継ぎ、立法局の首席華人非官守議員に昇進した。1939年12月、任期満了により立法局議員を退任し、親友の羅文錦爵士が首席華人非官守議員の座を引き継いだ。
香港は第二次世界大戦中に日本軍により占領され、「三年八ヶ月」の日本軍政を経験した。日本の降伏後も、1945年9月から翌4月にかけてはイギリスの臨時軍政府による統治を受けることとなった。臨時軍政府は人手不足に直面しており、また華人社会を宥める必要もあったことから、周は1945年に軍政府から臨時副華民政務司に任命され、九龍を拠点として執務にあたり、重光後の混乱した政治状況安定を補佐した。
1946年5月1日の民政復帰後、周は香港総督サー・マーク・ヤングにより再び立法局へ戻され、再び首席華人非官守議員を務めたほか、同年には行政局首席華人非官守議員も務めることとなった。これにより、周は戦後華人領袖の筆頭に上り詰めた。1950年には立法局首席非官守議員となり、1953年に立法局より二度目の引退を果たし、その後任には従弟である周錫年爵士が就任した。さらに、1959年8月には行政局首席非官守議員の職も退いた。行政局での貢献を讃え、イギリス女王エリザベス二世は周の行政局退任に際し、特別の勅令をもって、周が引退後も引き続き「閣下(The Honourable)」の尊称を使用することを認めた。これは、行政局華人議員としては周寿臣爵士に次ぐ栄誉であった。
行政局・立法局への奉職のほか、周はまた東華三院永遠顧問、保良局永遠総理、香港中華総商会名誉会董および顧問、工展会名誉会長、南華体育会名誉会長、那打素医院董事、香港聖約翰救傷会董事、香港保護児童会値理、東莞工商総会主席、童軍総会香港分会副会長といった多くの公職に就いた。この他、周は聖士提反書院校董および校友会主席であり、東莞義学校長も務めた。早くも戦前の1931年より香港大学校董会成員であり、1961年の香港大学50周年(金禧)の際には栄誉法学博士号を授与されている。
その長年にわたる公的事業への貢献により、1938年元旦には英国王ジョージ六世よりCBEを授与され、1956年5月には女王公式誕生日にナイトに叙せられた。
晚年
1965年2月6日、広東信託銀行において取り付け騒ぎが発生し、その2日後には全店舗が営業を停止した。この動揺は他の華資銀行にも波及し、連鎖的な取り付け騒ぎを引き起こした結果、1965年の株式大暴落へと発展した。この事件では広東信託銀行がついに破綻を宣言し、香港株式市場の主要指標である恒生指数も、今回の株災によりおよそ4分の1の急落を記録した。当時、広東信託銀行の董事長を務めていた周埈年は、自身の名誉と信望を守るため、株式暴落後すぐに声明を発表した。その中で、同行のすべての業務運営は専ら経理部門に委ねられており、自身は銀行の資金を一切動かしていないと強調し、取り付け騒ぎへの関与を全面的に否定した。
周埈年は1968年に突如として血栓塞性脈管炎を患い、病院に搬送されて手術を受けたが、その後病状が一時的に好転したため自宅で療養することとなり、それ以降は公の場への出席も減少した。1969年には日本政府より勲三等瑞宝章が授与された[3]。1970年12月12日、周は病気が再発し養和医院に入院したが病状は次第に悪化し、ついに1971年1月27日正午12時5分に逝去した。享年77歳であった。この日は旧暦の元日であった。
周の死後、1971年1月31日に香港殯儀館にて大規模に葬儀が催された。葬儀では、生前の親友である関祖尭爵士、サー・アルベルト・マリア・ロドリゲス、周錫年爵士、簡悦強議員、莫應基、盧義明がが棺を担ぎ、遺体は香港仔華人永遠墳場に埋葬された。
