周錫年
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| The Honourable Sir 周錫年 Sik-nin Chau 爵士 議員 | |
|---|---|
| 個人情報 | |
| 生誕 | 1903年4月13日 Template:HKG-1876 |
| 死没 | 1985年11月30日(82歳没) |
| 配偶者 | 劉慶桂(1904—1967)[1] |
| 親戚 | 周埈年(いとこ) |
| 職業 | 行政、立法両局首席非官守議員、紳商、医師 |
| 宗教 | 仏教(非公式) |
周 錫年爵士,CBE,JP(しゅう しゃくねん、英語: Sir Sik-nin Chau、イェール式広東語: Jāu Sek nìhn、1903年4月13日—1985年11月30日)は、香港の富商であり、香港初の華人耳鼻咽喉科医である。華人銀行、九龍バス、牛奶公司などの企業で董事長を務め、第二次世界大戦後の1940年代後半から1960年代初頭にかけて、立法・行政両局の首席非官守議員を歴任したほか、香港工業総会および貿易発展局の初代主席を務めた人物でもあり、従兄の周埈年爵士に続いて大きな影響力を持った華人領袖である。
周が董事長を務めた牛奶公司は1972年にはジャーディン・マセソン系の香港置地から敵対的買収にあい、また中風のため1976年以後は公の場に出席する機会が減少した。周は晚年には遺産分配をめぐり長男の嫁および次男の周啓邦と訴訟を繰り広げた。遺言に関する争いは、彼の死後も長く続いた。
前半生
周錫年の祖籍は広東省東莞にあり、周家の22世孫である。祖先には清朝名士もおり、1860年代、祖父周永泰の代になって商人として香港に定住した。錫年は1903年4月13日、周卓凡の第三子として香港に生まれた[2]。錫年の伯父周少岐太平紳士も立法局非官守議員を務めた富商であり、従兄周埈年爵士も後に立法行政両局の首席非官守議員を務めた。
周錫年は幼少期聖士提反書院に学んだ後、1918年に香港大学医学部に入学、1923年には医学士(MBBS)の学位を得て卒業した。香港大学卒業後はイギリス・ロンドン大学へ進学し、研修医として経験を積み、1925年にはイングランド耳鼻咽喉科のディプロマ(DLO)を取得し、翌1926年には眼科および外科のディプロマ(DOMS)を取得した。その後、ウィーン大学にも進学してさらなる研鑽を積んだ。
錫年は1927年に香港に戻ると香港初の華人の耳鼻咽喉科医として[3]、中環・皇后大道中の、現在の萬年大廈あたりで開業した。1930年から1936年にかけて、錫年は香港大学の眼科講師、西営盤の国家医院にて眼科医を務めた。錫年は第二次世界大戦前には医師という身分により、華人社会においてすでに一定の社会的地位を得ており、1936年から1937には香港医学会会長に選出されたほか、1936年から1941年にかけて香港政庁より医務局議員および市政局非官守議員に任じられた[4][2]。1939年5月19日には非官守太平紳士にも任じられた。
日本軍による占領前夜の1941年、錫年は保良局辛巳年主席となり、1942年には壬午年主席として再任されたが、1943年に辞任した。保良局総理在職時は三年八ヶ月の日本軍政期であり、保良局の経営は困難を極めたが、周錫年ら総理はこの苦境にあってなんとか局の機能を維持した。周は戦時中の貢献により、香港重光後英国王室より防衛勲章を授与された。
実業家として
周錫年は戦前までに既に相当な財を成しており、早くも1930年代には半山区克頓道に2万平方フィート超の庭付き洋館を購入していた。
戦後には、植民地政庁からの信任を得たことで、商界で更なる発展を遂げる。1955年、周は華人銀行を創設し、自ら董事長兼総経理に就任したほか[4]、台湾統一爆竹焰花股份有限公司、牛奶公司[5]、九龍巴士、浅水湾興業有限公司、遠東保険有限公司、錫元樹膠廠、惠康有限公司、大利連有限公司、国際牛奶有限公司、香港亞細亞冷蔵食品有限公司、九龍冰廠有限公司、香港平民屋宇有限公司、達通旅運有限公司、年豊米行、香港海産食品有限公司、萬利祥有限公司、賢邦有限公司、啓源有限公司、明機工業有限公司、雅頓洋行有限公司、香港九龍置業有限公司、帝国酒店聯営有限公司等の董事長を務めた。
ほかにも、周が戦後に董事を務めた企業には、泰国亞細亞冷蔵食品有限公司、泰国亞細亞超級市場有限公司、澳洲亞細亞食品有限公司、紐西蘭亞細亞食品有限公司、堪富利士産業有限公司、会徳豊紡織有限公司、星加坡華聯置業有限公司、養和医院等がある。
周錫年は、香港の工商界において大きな影響力を有し、各種商会の要職を務めた。その中には、香港中華総商会名誉顧問、中華廠商會、香港銀行華員会、橡膠業商会、棉業商会の名誉会長が含まれる。さらに、香港九龍華商会顧問、ならびに香港西商会執行委員などの職にも就いていた。
また、1935年に香港ジョッキークラブにおいて初の華人スチュワードとなり、1946年11月には同クラブのスチュワード委員会の委員に選出された。
両局議員
第二次世界大戦終結後、イギリスによる香港支配は1946年5月1日に民政復帰し、周錫年はその堂兄である周埈年爵士とともに、香港総督のサー・マーク・ヤングにより立法局非官守議員に任命された。1953年に周埈年爵士が立法局を退いた後、周錫年は立法局首席非官守議員の職に就き、1959年までこれを務めた。
一方、1948年以降、周錫年は行政局非官守議員も兼ね[3]、1959年に立法局を退いた後も引き続き行政局に留まり、さらに行政局首席非官守議員となった。周は両局に前後16年間在職し、その間、サー・マーク・ヤング、サー・アレキサンダー・グランサム、サー・ロバート・ブラックの三名の総督のいずれからも深い信任を得ていた。両局における周の貢献に報いるため、1950年にCBE勲章を授与され、1960年には女王エリザベス2世より勲爵位を授与された[2]。
任期が上限に達したため、周は慣例により1962年5月27日付で行政局の職を辞することとなったが、当時、香港の工商界には彼の留任を望む者が多く、集団で女王に上奏し、周の行政局在任期間の延長を請願した。しかし、この提案は最終的に植民地省によって却下された。もっとも、周のこれまでの貢献を顕彰するため、彼は堂兄の埈年と同様、行政局首席非官守議員を退任した後も、行政局議員に付随する敬称である「議員(英語: the Honourable)」の称号を引き続き使用することを、女王裁可により認められた。
公職
両局の議員在任期間中、周錫年は、団防局紳、国殤記念基金委員会主席を務め、また1953年から1959年にかけて、英聯邦国会協会香港分会副主席を務めた[3]。一方、工商界における地位を背景として、周錫年は1949年、インドで開催された国際連合アジア極東経済委員会大会において、香港の首席代表に選出された。翌年には、オーストラリアで開催された同大会においても、引き続き香港首席代表を務めた。1955年には、同委員会は香港で大会を開催し、周錫年は当年の大会主席に推挙された。
1959年、周は、設立予定であった香港工業総会初代主席に委嘱され[4]、1966年に会長を退任するまでその職を務めたが、その後も委員として留任した。1961年には、香港管理専業協会の設立を促進し、1961年から1969年にかけて初代主席を務めた。また1966年には、香港政庁より貿易発展局の初代主席に任命され[2]、1970年に退任した。1962年から1974年にかけては、香港政庁の紡織業諮詢委員会の委員の一人でもあり、さらに、アメリカの国際工業委員会の委員を務めたこともあった。
香港工業総会および香港貿易発展局の主席在任期間中、周錫年は1963年に香港の欧州共同市場考察団の団長を務め、1967年にはバンコクで開催されたアジア第一回展覧会の香港代表団団長を務め、さらに1970年にはアメリカに赴き、香港貿易代表団の団長を務めた。加えて、1964年から1967年にかけてはインド太平洋地区科学管理協会の会長を務め、1965年から1968年にかけては香港日本協会の会長を務めた。1970年には日本万国博覧会香港地区執行委員会主席に就任し、1970年から1973年にかけては香港生産力促進局主席を務めた。
周は香港の対外貿易の拡大に大きく貢献し、その功績により、1969年に日本政府から瑞宝章勲三等を授与された[6]。また、ニューオーリンズ政府は1966年に名誉市民の称号を授与した。さらに、周は国際科学管理学院より院士の資格を授与され、国際科学管理協会の副会長も務めた。
教育分野においては、1945年から1964年にかけて、周は英国大學遴選委員會の委員を務め、同時に香港大学校董会および校務委員会の成員でもあった。1946年から1960年にかけては香港政政庁の教育委員会首席委員を務め、1959年から1961年にかけては聯合書院校董会主席に就任した。その後、嶺南書院商学院の顧問局成員を務めたこともあった。
周は、低廉な住宅用戸建て住宅および集合住宅を建設する香港平民屋宇有限公司(英語: Hong Kong Settlers Housing Corporation)、ならびに香港模範屋宇会(英語: Hong Kong Model Housing Society)など、いくつかの地域団体で主席を務めた[4]。
また、本業が医師であった周は、香港における医療の発展にも貢献し、1949年にはラトンジーや顔成坤らとともに香港防癆会(英語: Hong Kong Anti-Tuberculosis Association)を設立、1963年まで初代主席を務めるとともに、同時に律敦治療養院(英語: Ruttonjee Sanatorium)を設置して、肺結核患者の治療を進めた。またGrantham Hospitalにおける活動にも従事した[3]。また、周は香港眼科学会名誉会長、英国紅十字会香港分会名誉副主席等も務めた。
周がそのほかに務めた公職としては、東華三院総理および永遠顧問、保良局永遠総理、香港童軍総会副会長、香港保護児童会董事、鐘声慈善社名誉社長、東莞同郷会会長、周氏宗親会永遠会長などがある。さらに、孔聖会、南華体育会、中華遊楽会の名誉会長も務めた。
「置地が牛乳を飲む」
1962年に行政局首席非官守議員を退任した後、周は次第に香港政治から身を引き、同時に家庭および事業の両面で相次ぐ打撃を受け、事業の頂点から下り坂へと向かった。1967年には、愛妻の劉慶桂を失い、大きな衝撃を受けた。同年、香港で六七暴動が発生する前後には、周はたびたび台湾を訪れ、蔣介石総統の接見を受けた。このため、周が台湾への移民および資本移転を意図しているとの噂が世間に流布した。
1972年、周錫年は人生におけるもう一つの打撃を受けた。同年11月、イギリス資本の置地公司が突如として牛奶公司に対し買収を提起したが、牛奶公司董事長であった周はこれを拒否した。その結果、置地と周との間で、牛奶公司の経営権をめぐる争奪戦が直ちに展開された。当初、周は持株比率を高めるため、牛奶公司の株式を大量に買い入れ、これにより牛奶公司の株価は、従来のおよそ45~50香港ドルから、200香港ドルを超える史上最高値へと急騰した。しかし、置地は牛奶公司の吸収に成功するため、1株の置地株につき新株5株を交付するという、いわゆる「株式交換」計画を打ち出し、牛奶公司の株主に対して保有株式の放棄を誘った。このため、両者は主要各紙において広告戦を繰り広げるに至ったが、最終的に置地は1972年12月、牛奶公司株式の80%を取得することに成功し、牛奶公司およびその傘下にある恵康などの企業を支配下に置いた。これにより、周は牛奶公司を失い、やむなく董事長の職から黙然と退くこととなった。
この「置地が牛乳を飲んだ(中国語: 置地飲牛奶)」事件において、置地公司は実質的な資金を投じることなく買収を成功させたが、「株式交換」に参加した株主は株価変動により甚大な損失を被った。この事件では、一般市民が熱狂的に株式投機の売買に参加し、そのこと自体が、1973年香港股災における大きな引き金の一つとなった。
晚年の遺産争い
周は牛奶公司を失って以降、その影響力は往時に及ばなくなった。1974年には、1946年以来保持してきた香港ジョッキークラブの英女王勅許による董事席位を失った(ただし、同年に名誉董事の称号を得ている)。ほどなくして、1976年には脳卒中で入院し、その後回復して退院したものの、一時は車椅子での移動を余儀なくされた。以後は公の場に出ることが次第に少なくなり、主として克頓道の私邸で隠遁生活を送った。
周は、本妻である劉慶桂が1967年に死去した後、ある慈善団体を通じて既婚女性の陳宝琦と知り合い、二人は次第に感情関係を深めていった。周は陳に対して多くの贈り物を与えており、また晩年に脳卒中を患った際には、主として陳宝琦がその世話を担当していた。周の本妻である劉慶桂は、ベトナムの富商・劉兆卓の娘であったため、劉慶桂の死去に際しては相当額の財産が残された。劉が生前に作成した遺言によれば、その遺産は夫の財産と合算され、夫および二人の息子によって共同管理されることとされていた。三者はいずれも当該財産の持分を有するが、財産の譲渡については三者全員の同意を要するものとされた。また、仮に周錫年が死去した場合、理論上は、劉と周の財産は、二人の息子によって等分されることになる。
しかし、周が陳宝琦と生活を共にするようになって以降、周と二人の息子との関係は次第に疎遠となった。1973年、周は自身の遺言を変更し、陳を遺産受益者の一人とした。周による遺言の変更は、長男の妻である盧秀研および次男の周啓邦が、1981年に高等法院に提訴し、1973年に作成された周錫年の遺言を無効とする命令を求める事態を招いた。これに対し、周はほどなくして盧および啓邦を逆に提訴し、彼らが一定の不動産権益を有していると主張するとともに、支払われるべき賃料の回収を求めた。双方はこの紛争をめぐって長期にわたり対立を続け、周錫年の死去に至るまで解決には至らなかった。周錫年死後も、盧と啓邦は陳宝琦との訴訟を継続したが、最終的には裁判外和解に達した。
2003年、周啓邦および盧秀研は再び裁判所に提訴し、彼らと周錫年の五人の孫が、周錫年の遺産のうち300万香港ドルを分配することを認めるよう求めた。当該遺産は、彼らと陳宝琦との連名による二つの銀行口座に預けられていた。陳宝琦もこの300万香港ドルの遺産を分配する資格を有していたが、周啓邦らは、陳宝琦が受け取る分については、当該訴訟に要した費用の控除に充てることを求めた。
死去
時任港督尤德爵士亦特地透過《憲報》發表公告,表示「深切軫悼」。周錫年は晩年、長期にわたり病床に伏し、1985年11月30日夜、養和医院において死去した。享年82歳であった。周の死後、鍾士元爵士が治喪委員会主席を務めた。遺体は同年12月6日、香港殯儀館において出殯された。出棺時は、サー・デイビット・エイカーズ・ジョーンズ、鍾士元爵士、馮秉芬爵士、簡悦強爵士、安子介、胡百全、蔡永善、馮漢柱の8名が棺を担いだ。周の遺体はその後、香港仔華人永遠墳場に埋葬された。その死に際し、当時の総督であったサー・エドワード・ユードも、政庁の公報上で「深切に哀悼する」意を表明した。
1982年、海外信託銀行は周の家族から香港華人銀行を買収した。
家庭
周錫年は、1927年に英国から香港へ戻った後、ベトナムの富商・劉兆卓の娘、劉慶桂を妻に迎えた。劉慶桂は、1947年12月11日に香港政庁より非官守太平紳士に任命され、その後1967年に死去した。周錫年と劉慶桂の間には二人の息子があり、長男は周啓賢、次男は周啓邦である。兄弟はいずれもケンブリッジ大学法学部を卒業し、啓賢はミドル・テンプルで資格を取得して大律師となり、その妻は盧秀妍である。啓賢は1979年、53歳で心臓病により急逝し、父よりも先に世を去った。次男の啓邦とその妻譚月清も同じく大律師である。譚月清の父である譚煥堂は、香港の富商であり、九龍バス創業者の一人であった。周啓邦夫妻は社交界での活発な活動でも知られ、周啓邦は2010年に腸癌のため死去した。
周錫年は、晩年に陳宝琦との親密な関係を持ったことにより、二人の息子およびその妻たちとの関係が次第に疎遠となった。なお特筆すべき点として、周錫年は生前、香港の「3号」自動車登録番号を所有しており、これは自身が第三子であることを意味するものであった。
| 主要公職 | |
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栄典
頭銜
- 周錫年 (1903年-1923年)
- 周錫年,MBBS (1923年-1925年)
- 周錫年,MBBS,DLO (1925年-1926年)
- 周錫年,MBBS,DLO,DOMS (1926年-1939年)
- 周錫年,MBBS,DLO,DOMS,JP (1939年-1946年)
- 周錫年議員,MBBS,DLO,DOMS,JP (1946年-1950年)
- 周錫年議員,CBE,MBBS,DLO,DOMS,JP (1950年-1960年)
- 周錫年爵士,CBE,MBBS,DLO,DOMS,JP (1960年-1985年)
勲章
- 加冕獎章 (1937年)
- 非官守太平紳士 (J.P.)(1939年5月19日)
- 國防章 (1945年)
- 大英帝国司令官勲章(C.B.E.)(1950年)
- ナイト・バチェラー(K.t.)(1960年)
- 銀禧勳章 (1977年)
- サンフランシスコ港湾管理局海事勲章 (アメリカ、1968年)
- 勲三等瑞宝章 (日本、1969年)
その他
名誉学位
命名された事物
- 周錫年爵士夫人紀念奨:香港中文大学聯合書院