周知裕
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経歴
若くして盧龍軍節度使の劉仁恭に仕えて騎将となり、推薦されて嬀州刺史となった。長らくを経て、徳州刺史に転じた。天祐4年(907年)、劉守光が滄州を平定すると、その子の劉継威を義昌軍節度留後とし、大将の張万進と知裕が劉継威を補佐した[1][2]。
乾化2年(912年)、劉継威は幼く、張万進の家で公然とわいせつなことをしていたため、張万進は劉継威を殺した。翌朝、張万進が知裕を召し出してそのことを告げると、張万進は義昌軍節度留後を自称し、知裕を景州刺史に任じた。張万進が後梁に帰順すると、知裕は先に開封府に入り、朱全忠に厚遇された。帰化軍が置かれて、知裕は帰化軍指揮使となった。河北から後梁に帰順した兵士たちは、みな知裕の部下となった。梁軍が晋王李存勗と黄河をはさんで交戦すると、知裕の帰化軍は晋軍の堅陣を挫いて、功績は最上だったが、官位は刺史にとどまった[1][3]。
同光元年(923年)、後唐の荘宗(李存勗)が開封府に入ると、知裕は段凝の軍に従って封丘県で武装解除した。郊外で総管の李嗣源に降った。李嗣源は知裕に会って喜び、諸子に命じて知裕に兄事させた。荘宗もまた知裕を特別扱いしたため、知裕は軍人たちに嫉まれた。壮士の唐従益が狩猟にかこつけて知裕を射殺そうとしたが、知裕は逃走して落命を免れた。荘宗は唐従益を殺し、知裕を房州刺史として出させた。同光3年(925年)、魏王李継岌が前蜀を討つと、知裕は召し出されて前鋒騎将をつとめた[4][5]。
天成元年(926年)、明宗(李嗣源)が即位すると、知裕は絳州刺史に移された。のちに淄州刺史・宿州団練使を歴任した。知裕は任地で農業を勧奨し、統治の名声を上げて、安遠軍節度留後に転じた[6][5]。長興3年(932年)、入朝して左神武軍統軍となった[7]。清泰元年(934年)6月28日、在官のまま死去した[8]。太傅の位を追贈された[6][5]。