乾隆23年(1758年)7月14日、誕生。
乾隆29年(1764年)、兆恵(ジャオフイ)が北京で死去。乾隆帝は彼の家を訪れて酒を供え、弔意を示した。同時に、和恪公主を兆恵の子ジャランタイ(札蘭泰)に嫁がせることを決定した。
同年6月4日、慎嬪が死去し、和恪公主は、永璜(乾隆帝の皇長子)の長男・綿徳らとともに喪服を着て哀悼した。
乾隆36年(1771年)12月、和碩和恪公主の称号を授かる。
乾隆37年(1772年)8月、正式に協弁大学士・一等武毅謀勇公兆恵の子ジャランタイに嫁ぐ。
和恪公主の「初定礼筵(婚約祝いの宴)」の際、乾隆帝と皇太后は熱河行宮に滞在していたため、本来保和殿で行われる予定だった宴席は取りやめとなり、代わりに慈寧宮で執り行われた。
内務府は、永寿宮に宴席16卓、羊10頭、酒10瓶を準備したが、乾隆帝と皇太后は熱河行宮にいたため、宴には出席しなかった。
和恪公主は京城に住むため、嫁入り道具の一部(帳房、牛車、駱駝、涼棚など)は支給されなかった。これは事実上、公主の待遇削減であり、従来の制度を崩すものだった。
乾隆期には京城に長く住む公主が増え、地方でのみ必要な嫁入り道具が不要になるケースが増加。そのため、妆奁(嫁入り道具)の規定は現実に即して変更されるようになった。
乾隆38年(1773年)10月、娘を出産。
乾隆39年(1774年)、慶貴妃陸氏が北小花園で死去。和恪公主と皇十五子・永琰(後の嘉慶帝)は喪服を着て哀悼した。
乾隆45年(1780年)11月19日、肺結核により死去(享年23)。
宮廷の御医たちが尽力したものの、治療の甲斐なく亡くなった。
葬儀の費用は計11,674両の銀を使用。
これは予算の11,478両を195両超過していたため、追加費用の支出は許可されず、元の予算内で工面するよう指示された。
乾隆46年(1781年)2月3日、乾隆帝は和恪公主の娘を宮中に迎え、翊坤宮に住まわせた(本来は端則門に住むのが規定だった)。
和恪公主の遺産は乾隆帝によって封印され、娘の嫁入り道具として保管された。
乾隆47年(1782年)7月、乾隆帝は孫娘(和恪公主の娘)の婚姻相手をホルチン部(科爾沁部)のジョリクトゥ・チンワン(卓哩克図親王)グンゲラブタン(恭格喇布坦)の子で一等タイジ(台吉)のリンチンドルジ(琳沁多爾済)と決定した。
- ↑ 內務府檔冊 https://curiosity.lib.harvard.edu/chinese-rare-books/catalog/49-990096063680203941