アムルサナの反乱鎮圧時の兆恵
兆恵は、雍正帝生母孝恭仁皇后の同族として生まれた。また、父の佛標は官位として都統にまで昇った。
雍正9年(1731年)、兆恵は仕官し、筆帖式として軍機処に勤務した。
乾隆元年(1736年)に乾隆帝が即位すると、兆恵は兵部郎中・内閣学士・盛京刑部侍郎・刑部右侍郎・正黄旗満洲副都統・鑲紅旗護軍統領などを歴任した。
乾隆13年(1748年)、清軍が大金川攻撃で挫折すると、兆恵は戸部侍郎を兼任し、金川の軍営に赴いて兵糧輸送を督理し、その後正式に戸部侍郎へ転任した。
乾隆16年(1751年)、尚書・孫家淦の偽上奏事件が起こると、兆恵は山東へ派遣され調査にあたり、巡撫代理を務めた。
乾隆18年(1753年)、チベットへ派遣され、ジュンガル対策の防備計画を担当。
乾隆19年(1754年)、ジュンガル遠征に際し、北路軍の軍務を補佐し、兵糧を総括した。
乾隆20年(1755年)、ウリヤスタイに駐屯。同年8月、清に降った将軍アムルサナが反乱を起こし、さらにクシュムも叛乱し、イリに駐屯していた清軍将軍バンディ(班第)や参賛オヨンゴ(鄂容安)が包囲されて戦死した。当時ウルムチにいた定西将軍・永常は援軍に出ず退却したため罷免され、兆恵が危機の中で任命され、バルクルへ移動し、補給拠点の監督も兼任した。
乾隆21年(1756年)初、降将サラルが清に逃れてくると、兆恵は軍を率いてアムルサナ討伐に向かった。同年、清軍はイリを回復し、兆恵は定辺右副将軍に任じられ、戦後処理を担当した。しかし同年冬、ガルザンドルジらが再び反乱を起こし、ウルムチは陥落。兆恵は部隊を率いて包囲を突破し、バルクルの清軍本営へ撤退した[1]。
乾隆22年(1757年)春、兆恵は西路軍総司令としてイリから出撃し、ジュンガル勢力を掃討。同年3月、回部平定の功により一等武毅伯に封じられ、12月には定辺将軍に任じられた。
乾隆23年(1758年)、天山南路に進軍し、大小ホージャの乱を鎮圧、多くの都市を攻略した。同年10月には黒水営の包囲戦が起こり[2]、11月、功績により一等武毅謀勇公に昇封(世襲罔替)された[3]。
乾隆24年(1759年)、援軍の富徳と合流し[1]、ヤルカンド東北で敵を大破。大小ホージャはバダフシャンへ逃れたが現地君主により殺害され、反乱は終結し、清朝は新疆を版図に組み入れた[1]。
乾隆25年(1760年)正月、兆恵は凱旋し北京へ帰還。乾隆帝は自ら良郷まで出迎え、盛大な労をねぎらった。同年2月、兆恵は一等武毅謀勇公・戸部尚書として軍機処に入り、御前大臣を兼ねた[4]。
乾隆26年(1761年)、協弁大学士兼刑部尚書代理に任じられ、殿試では特に読巻大臣を務めるなど厚遇された。
乾隆29年(1764年)、兆恵は死去。
諡号は「文襄」とされた[5][6][7]。
兆恵の北京の邸宅は「兆恵府」と呼ばれ、墓は現在のオリンピック森林公園内にある。
子の札蘭泰は嘉慶帝の同母姉和碩和恪公主を娶った。