哀帝 (東晋)
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成帝が崩御した際、僅か2歳であった。当時、外戚の庾冰は「国難の時期に幼君は相応しくない」という理由で司馬丕の帝位承継を遮り、叔父の康帝が代わりに践祚した[1]。
咸康8年(342年)、琅邪王に封じられ、永和元年(345年)に散騎常侍となった。永和12年(356年)、中軍将軍が加わり、升平3年(359年)に驃騎将軍を拝命された[2]。
升平5年(361年)、従弟の穆帝が後嗣なく崩御すると、褚太后の懿旨により即位。戸口調査を行い人民の土着に努めたが[3]、その実権は成漢征討や洛陽奪回の功勲者桓温と皇室の長老であり大叔父の会稽王司馬昱に握られ、哀帝自身は傀儡同然であった。そのためか、政務は顧みないまま仏法を好み、不老長寿を求める長生術に没頭した[4]。ついには丹薬の中毒により日常生活が不可能になった結果、興寧2年(364年)3月から褚太后が再び摂政として臨んだ[2]。
興寧3年(365年)正月、皇后王氏と死別し、哀帝も同年2月に西堂で崩じた。享年25[2]。
弟の司馬奕が帝位を継いだ。