褚蒜子
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名家の娘として聡明で度量と見識があった。琅邪王司馬岳(後の康帝)に嫁ぎ、妃となった。咸康8年12月壬子(343年2月10日)、康帝の即位に伴い皇后に立てられた。建元2年(344年)9月、康帝の崩御により独り子の穆帝が即位すると、蒜子は皇太后に上った。当時、穆帝はわずか2歳であったなので太后が称制し、何充や会稽王司馬昱が補佐した。
称制の間、父の褚裒が宮中で臣下の礼を取らせるべきだという建議を納めたり、実家の義母らに対する追贈も許さないなど、本分を守る面貌を示してくれた。升平元年(357年)正月、穆帝が元服を行った際、蒜子は政務を返して崇徳宮に居住した。升平5年(361年)5月、穆帝が子供なしで崩御すると、詔令を下して穆帝の従兄弟にあたる司馬丕(哀帝)を即位させた。興寧2年(364年)3月、哀帝が丹薬の中毒ために日常生活が不可能になると、再び摂政に就けた。哀帝の崩御後は彼の同母弟であり、琅邪王の位を継いでいだ司馬奕を即位させた。
太和6年(371年)11月、大司馬桓温は司馬奕が男色に溺れたと讒訴しながら廃立を求め、これに押された蒜子は真偽も確認せず同意した。会稽王司馬昱が簡文帝として即位すると、崇徳太后と称された。寧康元年(373年)8月、桓温の死去を機に政権を握った謝安の奏請により三度目の摂政を務めた。太元元年(376年)、孝武帝が元服を行うと、政務を返し引退した。