仙台藩藩士である小島嘉右衛門は須江村に950石を領し、須江茄子川に居を構えていた。嘉右衛門は寛永21年(1644年)に川村孫兵衛の後を受け、分領中の普請司を担当し、功績を上げた。
その頃、万治年間、藩主伊達綱宗逼塞により、2歳の亀千代が仙台藩62万石の太守となり、その後見人として伊達宗勝と田村宗良の両名が選ばれた。本来、後見人は3万石ずつ分地を受けるはずであったが、奉行の奥山常辰らの吟味を経て、6万石を新たに開墾し、それを分地することとなった。開墾の候補地として前谷地、和渕、鹿又、赤井、大曲、矢本、広渕の各野谷地が選定されたが、これに対して嘉右衛門は灌漑用水の整備を建議した。具体的には広渕米ケ崎にある深沼から瓦山、糠塚、姥神に至る堤防の建設案を説いた。嘉右衛門の意見は聞き入れられ、奥山常辰らが柏木にて実地調査を実施、寛文2年(1662年)10月には工事がスタートした。工事開始の翌年には「新田開発に付き、百姓二男三男移住すべし」とお触れが出され、谷地喜左衛門の指図のもと、百姓1人につき谷地1町歩、材木5間、道具5切が与えられた。寛文4年(1664年)には嘉右衛門堀が完成、以降地域農業の発展に寄与した[4]。
1941年(昭和16年)、嘉右衛門堀沿岸排水改良事業(2,128歩)が県営事業として着工した。この事業は、1934年(昭和9年)から着工された遠田・桃生・牡鹿三郡用排水改良事業の補完的事業であり、排水路改修や大神筒排水機場の設置などが実施された。この事業は、事業費60万8千円で1946年(昭和21年)に終了している。翌1947年(昭和22年)には嘉右衛門堀普通水利組合が発足した。
1978年(昭和53年)、河南町が主体となって、嘉右衛門堀排水対策事業を実施した。