須江 (石巻市)

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須江
大字
須江における田園風景
北緯38度28分16.579秒 東経141度14分36.366秒 / 北緯38.47127194度 東経141.24343500度 / 38.47127194; 141.24343500座標: 北緯38度28分16.579秒 東経141度14分36.366秒 / 北緯38.47127194度 東経141.24343500度 / 38.47127194; 141.24343500
日本の旗 日本
都道府県 宮城県の旗 宮城県
市町村 石巻市
地区 河南地区
人口情報2025年4月30日現在[1]
 人口 3,561 人
 世帯数 1,377 世帯
面積1971年(昭和46年)時点[2]
  7.5 km²
人口密度 474.8 人/km²
設置日 1955年昭和30年)
3月21日
郵便番号 987-1221[3]
市外局番 0225[4]
ナンバープレート 宮城
運輸局住所コード[5] 04501-1893
町字ID[6] 0163000
ポータルアイコン ポータル 日本の町・字
ポータルアイコン ポータル 宮城県
プロジェクト 日本の町・字
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須江(すえ)は、宮城県石巻市河南地区にある大字であり、旧桃生郡須江村(藩政村)、旧桃生郡深谷村須江、旧桃生郡須江村(行政村)、旧桃生郡河南町須江に相当する。郵便番号は987-1221[3]2024年令和6年)2月時点では住居表示未実施[7]住民基本台帳に基づく人口は3,561人、世帯数は1,377世帯(2025年4月30日現在)[1]

地形

石巻市の西部、河南地区の東部に位置し、東部で鹿又および蛇田、南部で東松島市赤井、西部で広渕および東松島市赤井、北部で鹿又と接する。

  • 須江山
  • 代官山 - 須江の背陵をなす丘陵であり、これによって表須江と裏須江とに分かれている[2][8]
  • 瓦山[2]
  • 細田山 - 標高92.1 m[9]

部落

  • 糠塚
  • 細田
  • 沢田

小字

仙台法務局石巻支局の「石巻市登記所備付地図データ」(2025年5月28日時点)、デジタル庁公表のアドレス・ベース・レジストリの「宮城県町字マスターデータセット」(2025年8月9日時点)、運輸局公表の「東北運輸局宮城運輸支局住所コード表」(2024年11月1日時点)によれば、須江の小字は以下の通りである[10][5][6]。なお、町字IDは「宮城県町字マスターデータセット」(2024年8月13日時点)に基づく。

町字ID 大字 小字 出典
町字マスター 運輸局コード 登記
0163101 須江 字相野佐野
0163102 字しらさぎ台一丁目[注 1]
0163103 字しらさぎ台三丁目[注 1]
0163104 字しらさぎ台二丁目[注 1]
0163105 字一工区西 ×
0163106 字一工区東
0163107 字塩下前 ×
0163108 字横手
0163109 字横沢 × ×
0163110 字沖新田 ×
0163111 字沖新田下 × ×
0163112 字家計 × ×
0163113 字茄子川
0163114 字茄子川前
0163115 字茄子川内 × ×
0163116 字梶田 ×
0163117 字釜 ×
0163118 字瓦山
0163119 字瓦山下
0163120 字瓦山上 ×
0163121 字瓦山前
0163122 字関ノ入
0163123 字舘
0163124 字舘山根
0163125 字欠
0163126 字欠前 ×
0163127 字古土手
0163128 字牛房土手北
0163129 字牛蒡土手 × ×
0163130 字糠塚
0163131 字糠塚前
0163132 字座頭前
0163133 字細田
0163134 字鷺の巣 ×
0163135 字山崎
0163136 字山崎前
0163137 字山森 ×
0163138 字寺前
0163139 字小国
0163140 字小竹
0163141 字上大刈場 ×
0163142 字畳石
0163143 字畳石前
0163144 字新江中 × ×
0163145 字新寺前 ×
0163146 字新土手
0163147 字新道北 × ×
0163148 字水溜 × ×
0163149 字杉屋敷
0163150 字正太郎
0163151 字清水前 ×
0163152 字代官
0163153 字大刈場
0163154 字大谷地
0163155 字大平
0163156 字大溜池外流 × ×
0163157 字沢尻
0163158 字沢田
0163159 字沢田前
0163160 字池袋
0163161 字中埣
0163162 字長谷地
0163163 字程島 × ×
0163164 字内ノ目 ×
0163165 字内流 ×
0163166 字二工区北一号
0163167 字八反巻 ×
0163168 字美糠
0163169 字大剥[注 2] ×
0163170 字皮剥[注 2]

明治期の小字

宮城県各村字調書によると、明治17,18年頃の須江村の小字は以下の通りである[11]

  • 古土手
  • 糠塚前
  • 糠塚
  • 内流
  • 大平
  • 欠前
  • 午房土手南
  • 午房土手北
  • 山森北
  • 山森南
  • 梶田
  • 梶田沖
  • 新道北
  • 館山根
  • 館山沖
  • 迫前外
  • 茄子川内
  • 金沢前
  • 代官
  • 池袋
  • 小竹
  • 沢田
  • 茄子川
  • 瓦山
  • 大溜池
  • 外堀
  • 瓦山下
  • 瓦山上
  • 八反巻西
  • 八反巻東
  • 清水前
  • 的場
  • 大田巻
  • 沖新田下
  • 沖新田上
  • 程嶋
  • 鷲ノ巣
  • 関ノ入
  • 山崎
  • 畳石
  • 横沢
  • 相ノ佐野
  • 沢田前
  • 細田
  • 寺前
  • 内女
  • 川剥
  • 大谷地
  • 横土手
  • 中卒
  • 小国
  • 家計
  • 新江中
  • 水溜
  • 長谷地
  • 美糠座頭前
  • 大苅場
  • 杉屋敷

安永期の小字

安永風土記によれば、須江村は以下のような小名・屋敷名があったとされる[12]

  • 糠塚
  • 大平
  • 梶田
  • 池袋
  • 沢田
  • 茄子川
  • 瓦山
  • 小竹
  • 程嶋
  • 鷲ノ巣
  • 山崎
  • 畳石
  • 相ノ佐野
  • 細田
  • 中埣
  • 小国
  • 大刈場

行政区

石巻市は世帯数及び人口の調査、世帯台帳の整備、市行政の周知、連絡、通知のための公文書の配布伝達を円滑に行うために、行政区を定めている[13]。石巻市の例規「石巻市行政委員規則」(2024年2月1日施行)によれば、須江と対応する行政区は以下の通りである[13]

行政区 町・字(特記なければ各全部)
大字 小字
中埣 須江 字相野佐野
字大刈場
字小国
字座頭前
字杉屋敷
字中埣
字長谷地
字美糠
字横手
字大剝(一部)
字大谷地(一部)
山根 字内ノ目
字大谷地の一部
字皮剝
字沢尻
字関ノ入
字畳石
字寺前
字山崎
字山崎前
字しらさぎ台三丁目(一部)
字大剝(一部)
字舘前
しらさぎ台 字しらさぎ台一丁目
字しらさぎ台二丁目
字しらさぎ台三丁目(一部)
沢田 字池袋
字瓦山(一部)
字瓦山上
字瓦山前
字小竹
字沢田
字沢田前
字代官
字大平
字欠(一部)
字瓦山(一部)
字牛房土手北
字正太郎
字舘
字茄子川
字茄子川前
糠塚 字一工区東
字欠(一部)
字瓦山(一部)
字二工区北一号
字糠塚
字糠塚前
字古土手
字細田

その他小地名

  • 小竹 - 竹藪の生い茂る地であり、到底人の住める場所ではないが、かつて葛西の残党が隠れ住んだ地であったとされる[14]。厳しい葛西家残党狩りを乗り越えた当地の生き残りの子孫は渥美家となったとされる[14]
  • 塩野田(もしくは塩煮田や塩下) - かつて塩野田城があった場所とされており、現在は字塩下前などにその名を残している[14]。製塩が行われていたとされ、将士の禄に供したとされる[14]

歴史

古代

須江瓦山窯跡や細田遺跡、代官山遺跡といった場所にて8世紀から10世紀において古代牡鹿郡で必要とされた瓦や須恵器が生産され、牡鹿郡衙などに供給されたとされる[注 3][15]。また、牡鹿郡を本貫とする道嶋氏伊治城築城に深くかかわっていたことから、当地で焼かれ、伊治城へ供給されていたという説もある[16]。代官山遺跡では「佛」と書かれた土師器坏が見つかっており、古代寺院との関連した遺構の存在も想定されている[17]。また、須江丘陵南部のほぼ中央部一帯に位置する関ノ入遺跡では古墳時代から平安時代に至るまでの竪穴建物跡が54棟発見された[17]。竪穴建物跡には土師器甕や須恵器坏といった一般的にみられる土器のほか、土師器多口壺や鉢型須恵器など珍しい種類の土器も出土した[17]。このような珍しい種類の土器は西日本を中心に寺院跡から出土しており、東北地方でも官衙跡や寺院跡と思われる遺跡から出土しており、関ノ入遺跡周辺に古代寺院や官衙が存在していた可能性も想定されている[17][18]

征夷大将軍坂上田村麻呂により蝦夷が征討されると、当地域は律令制に組み込まれた[19]日本後紀の延暦23年(804年)正月十九日の記事には征夷のために小田郡中山柵に運ばせたということが記されている[19]。中山柵の場所についてはJR佳景山駅付近の須江丘陵北端とする説があったが、現在では登米市米山町中津山などとする説が提唱されている[19]

中世

中世になり奥州藤原氏陸奥国の覇権を握るも、源頼朝により奥州藤原氏が征伐され、当地一帯は頼朝の配下の将である長江義景の支配下に置かれた[20]。須江は深谷保の領域の一部として支配されていたとされていたが、一説によると深谷保と別に深江保という保が存在していたともされ、それは須江周辺に相当し、定川を境に深谷保と接していたとされる[21][22]。ただし、深江保は小野に本拠地を置いていた長江氏の東方への勢力拡大に伴って、深江保は深谷保へと吸収合併されたという[22]。しかし、長江氏は後に大崎氏葛西氏留守氏といった強大な勢力に囲まれ、度々滅亡の危機に瀕していた[23]。そこで長江氏は伊達持宗を頼ったため、以降長江氏は伊達家の勢力下に含まれるようになった[23]。ただ、葛西氏は永正の合戦で桃生郡を支配していた山内首藤氏を滅ぼして以来、西方への勢力拡大を模索し、次第に須江を含む深谷地方をも支配していった[23]。なお、長江氏は伊達家の影響下で存続していたが、長江勝景の代になり天正18年(1590年)8月に謀反の疑いをかけられ秋保にて天正19年(1591年)12年に切腹させられたことで、滅亡した[23]

須江山の惨劇

天下統一をもくろむ豊臣秀吉小田原攻めを行い、奥州の大名らに参陣を要求した。しかし葛西晴信はこれに参陣せず、秀吉に敵意ありとみなされ、秀吉は木村吉清らを討伐軍として向かわせた[24]。葛西勢第一軍は西郡城城主の西郡胤元および米谷城城主米谷常秀を大将として桃生郡深谷和渕の地に布陣し、討伐軍を迎え撃った[24]。結果、葛西勢第一軍は西郡胤元は討ち取られ[注 4]、葛西晴信は佐沼城へと逃れた[25]。佐沼城も陥落し、400年間続いた葛西17代の歴史は幕を閉じた[注 5]。しかし、葛西大崎の旧臣らは新領主となった木村の支配に反発し、葛西・大崎一揆を起こした[26]。そもそも木村はもと小領の俄大名で家臣も少なく、また、検地や刀狩りは強引に実施され、年貢の取り立ても逆らうものは極刑に処すなど苛烈であったことから旧臣のみならず住民らにも強い反感を抱かれていた[26]天正19年(1591年)7月、奥州の覇者として名をはせていた伊達政宗は太閤豊臣秀吉の命により一揆鎮圧に動いた[27]。反乱軍は奥州仕置によって木村伊勢守父子に奪われた旧領地の奪還を目的として佐沼城に立てこもった[28][29]。政宗は佐沼城を攻めるもなかなか落とすことができず、葛西家の重臣である赤井備中守あてに「佐沼城を明け渡し自領に帰れば領地は安堵する」という旨の密書を送ったとされる[29]。そもそも政宗は葛西氏と血縁関係にあった上、改易された葛西晴信黒川郡大谷荘にかくまうなど、政宗と葛西家重臣の間には信頼関係が成り立っていたとされる[28][29]。ゆえに政宗の計は成功し、一揆勢の名だたる武将らは佐沼城から退散し、まもなく佐沼城は陥落した[30]。佐沼城の戦いでは一揆勢五、六千人が切られ、伊達勢も千人ばかりが討死にした[30]。佐沼城と同様に寺池城を開城し、一揆は鎮圧されたが、葛西方の武将たちは政宗の密書通り旧領に帰還したため生き残っていた[31]。そんな中、関白豊臣秀次が一揆終息の視察に来るとのことで、政宗は葛西家重臣らに「関白秀次に願って葛西家旧臣らを助けるから桃生郡深谷に参集せよ」という旨の書状を送った[31]。『伊達家治家記録』には

身命は相助けらるるように仰せ上げらるべし、各々在所に罷在る事は如何なれば、先ずもって桃生郡深谷へ参り居るべき旨、仰せ付けされ云々

と記載されている[31]。葛西家一門はこれを信じ、深谷のうち須江山(現在の佳景山駅の南側にあたる小山)に馳せ参じた[31][27]。須江山には千田氏、佐々木氏、新沼氏、小沢氏、今野氏、北口氏、宮沢氏、千葉氏、大和田氏、大槻氏、有壁氏、西郡氏、石崎氏、桑島氏、清水氏、武鑓氏、金沢氏、猪岡氏、奥玉氏、鳥畑氏、江刺氏、浜田氏、矢作氏、及川氏、薄衣氏、沼倉氏、馬籠氏、嵯峨立氏、元吉氏、今野氏、小岩氏、大原氏、亀掛川氏といった旧臣らが集結したとされるが書物により、顔ぶれが異なっているため、定かではない[32][33][34]。葛西家の旧臣らの多くは伊達方の武将である泉田安芸らによって須江山で惨殺されたが、大槻但馬守などといった武将らは逃げ、近くの沢にて自害して果てたとされている[35]。この沢は葛西方の武将の最期の地ということで「殿入沢」という地名が付けられた[35]。殺された葛西方の武将は東浜街道にてさらし首に処され、須江山は木村重景によって戦後処理および警備がなされ、戦いは幕を閉じた[36][37]

須江山での惨劇は伊達家の記録にほとんど記載されておらず、その全貌はなかなか解明されていないが[38]、磐井郡の千葉氏文書には寺崎信継の戦死について

八月十四日、葛西ノ諸士、桃生郡糠塚山に至リテ、政宗公ノ伏兵ト大ニ戦テ、咸誅ニ伏ス、寺崎信継モ亦、此ノ軍ニ出テ、大イニ武威ヲ震イ、疵ヲ被リ、力尽キテ自殺ス

とあるほか、花泉の熊谷氏文書では武鑓重信の戦死について

天正十九年八月十四日、一揆ノ勢、更ニ集ル、政宗ノ伏兵ト桃生郡糠塚山ニテ会フ、重信亦一揆ニ加ワル、堅ヲ破リ、銃ヲ砕キ力戦シ、傷死ス

とあるなど戦いが起こったのは確かなようである[38][39]

近世

江戸時代になると、須江は仙台藩北方郡奉行深谷代官区の支配下に入り、仙台藩氏である青木氏による開墾が行われた[40][12][41]。青木氏はもともと伊達郡青木郷に居住していた一族で須江に野谷地を拝領して開墾して32石6升の田を得たとされる[40][42]。風土記御用書出によると寛文7年(1667年)の御竿答え百姓は55人であったが、安永年間には75人となった[43]

近現代

戊辰戦争の敗北により、仙台藩は賊軍とされ、伊達家62万石が没収された[44]。明治元年(1868年)12月12日に高崎藩取締地となるが、明治2年7月に桃生県、8月に石巻県、明治3年に登米県、明治4年に仙台県、明治5年に宮城県所属となった[44]

1955年(昭和30年)3月21日、須江村と鹿又村、広渕村、北村、前谷地村が合併し河南町が成立した[45]。合併時の人口はおよそ2千9百人で、5村の中で最も人口規模および面積が小さかった[46]。須江村は石巻市と合併する声が上がっていたが、結局県試案(5村での合併)での合併が敢行された[45][47]。しかし、旧須江村域の分村問題は合併後1年間続き、いよいよ県議会議員まで巻き込んで分村運動が展開された[47]。県議会では分村促進請願書提出が繰り返し行われたが、町のほうでもこれを放っておくことはできず、それに対する反対請願が出された[47]。河南町出身の斎藤荘次郎県議は逆に「分村促進請願を不採算とし、反対請願を採択する」動議を提出し分村派に対抗した[47]。この採択は賛成多数により可決され、分村は否定された[47]

昭和末期、須江含む河南町では農業労働力人口の減少や農業の兼業化、農用地の減少、農業生産額の低下などといった問題が生じ、圃場整備や農道整備といった土地基盤の改良といった工事による低コスト稲作体系の構築に活路を開く必要があった[48][49]。こういった現状を打破するために須江では中埣地区において圃場整備が1992年(平成4年)から1998年(平成10年)にかけて実施された[49][50]。中埣地区は須江の南部に位置する面積79.5 haの地区で元々は排水が不十分で耕地は不整形、道路幅員も狭いなど近代的農業には多くの支障があった[50]。このため、1992年(平成4年)から国の補助を受けて、低コスト化水田農業大区画整備事業並びに二十一世紀型水田農業モデルほ場整備授業を県営事業として実施することになり、計10億2000万円をもって畑4.8 haを含めて79.5 haの田圃が1998年(平成10年)に完工した[50]

2017年(平成29年)4月には、マルハニチロ新石巻工場が字畳石で操業を開始した。もともとは1946年(昭和21年)から門脇町で石巻工場として営業していたが、震災により損害を受け、全3棟のうち2棟が全壊、残る1棟も骨組みがむき出しになるという被害を被った[51]。震災から5か月後には震災前の4分の1の規模で復旧し、再稼働したが、国の復興計画のなかで門脇町は堤防を整備することが決定し、石巻工場における事業継続が困難となったことで、須江への移転が決定し、新石巻工場が開設された。新石巻工場は無人搬送車やロボット等の省人化設備や、ICタグやバーコードによる自動認識技術を活用した新生産管理システムなどが導入された最新鋭の工場で、マルハニチログループ内における最新のモデル工場として整備された。操業開始以降、生産量は徐々に増加している状況で、2025年現在においては家庭用冷凍食品のフライ・天ぷら、業務用冷凍食品の味付けたらこなどを製造している[52]

沿革

新暦導入以前(明治5年以前)の日付は和暦による旧暦で表記する。丸括弧内は西暦で、1581年以前はユリウス暦1582年以降はグレゴリオ暦
  • 天正19年(1591年)8月14日 - 葛西大崎の旧臣らが伊達政宗の命で須江山に集められ虐殺される[53]
  • 1869年(明治2年)
  • 1870年(明治3年)9月28日 - 登米県に属する[54]
  • 1871年(明治4年)11月2日 - 宮城県に属する[54]
  • 1876年(明治9年)11月 - 和渕村、北村、鹿又村、前谷地村、広渕村とともに第5大区第2小区に属する[54]
  • 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、須江村と赤井村、大窪村、塩入村、北村、広淵村が合併し、深谷村が成立。旧須江村は深谷村須江となる[55]
  • 1896年(明治29年)4月1日 - 深谷村が分村し、深谷村須江の区域をもって須江村が成立[56]
  • 1897年(明治30年)4月 - 石巻警察警察署須江駐在所が開所。
  • 1948年(昭和23年) 4月 - 須江農業協同組合が発足[57]
  • 1955年(昭和30年)3月21日 - 鹿又村、前谷地村、広渕村、北村、須江村が合併し、河南町が成立[58]。須江村は河南町須江となる。また同時に旧須江村役場(字小竹30)に河南町役場須江支所が設置された[59]
  • 1963年(昭和38年) - 旧須江村役場が解体され、河南町役場須江支所は字池袋5-2に移転した[59]
  • 1964年(昭和39年)4月1日 - 須江児童館が字池袋5-2に新築開館[60]
  • 1968年(昭和43年)9月 - 町役場須江支所が連絡所に降格[59]
  • 1969年(昭和44年)10月 - 須江駐在所が河南駐在所に統合される[61]
  • 2003年(平成15年)7月26日 - 震源を旭山として宮城県北部連続地震が発生し、被害を受ける[62]
  • 2005年(平成17年)4月1日 - 河南町が石巻市河北町雄勝町桃生町北上町牡鹿町が合併して、新・石巻市が成立するに伴い、河南町須江が石巻市須江となる。
  • 2017年(平成29年)4月 - マルハニチロ新石巻工場が営業開始[51]

地名の由来

陶節

須江の地名の由来は陶、つまり陶工の居住する部落の意味から来たという説[2]。実際に須恵器といった土器が多く出土している[15]

末説

安永風土記によれば、桃生郡・牡鹿郡の郡境に位置する村であったことから、末の村という意味からその名が付いたという説[63]

施設

交通

人口

2025年令和7年)4月30日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

大字 小字 世帯数 人口
須江 字しらさぎ台一丁目 218世帯 550
字しらさぎ台二丁目 304世帯 828
字しらさぎ台三丁目 221世帯 567
字一工区東 3世帯 6
字横手 4世帯 10
字茄子川 19世帯 51
字茄子川前 10世帯 26
字瓦山 67世帯 180
字瓦山前 13世帯 34
字関ノ入 27世帯 63
字舘 40世帯 87
字欠 42世帯 99
字古土手 17世帯 41
字午房土手北 1世帯 5
字糠塚 18世帯 35
字糠塚前 26世帯 65
字座頭前 2世帯 2
字細田 26世帯 72
字山崎 17世帯 43
字山崎前 2世帯 5
字寺前 7世帯 17
字小国 12世帯 20
字小竹 14世帯 46
字畳石 3世帯 11
字新寺前 1世帯 4
字杉屋敷 1世帯 3
字正太郎 2世帯 6
字相野佐野 3世帯 9
字代官 9世帯 25
字大刈場 13世帯 39
字大谷地 13世帯 21
字大平 81世帯 233
字大剝 5世帯 17
字沢尻 14世帯 33
字沢田 26世帯 67
字沢田前 2世帯 4
字池袋 9世帯 21
字中埣 41世帯 100
字内ノ目 22世帯 53
字二工区北一号 2世帯 9
字皮剝 20世帯 54
合計 1,377世帯 3,561

人口・世帯数の推移

以下は国勢調査による1995年から2020年における5年ごとの須江の人口推移を表すグラフである。

須江の人口推移
人口
1995年(平成7年)[70]
1,812
2000年(平成12年)[71]
2,217
2005年(平成17年)[72]
2,545
2010年(平成22年)[73]
2,914
2015年(平成27年)[74]
4,134
2020年(令和2年)[75]
3,666

以下は国勢調査による1995年から2020年における5年ごとの須江の世帯数推移を表すグラフである。

須江の世帯数推移
世帯数
1995年(平成7年)[70]
442
2000年(平成12年)[71]
603
2005年(平成17年)[72]
712
2010年(平成22年)[73]
880
2015年(平成27年)[74]
1,325
2020年(令和2年)[75]
1,193

教育

小・中学校の学区

小・中学校の学区は以下の通りである[76][77]

大字 字・番地 小学校 中学校
須江 全域 石巻市立須江小学校 石巻市立河南東中学校

伝説

石の唐洞

天正年間に須江山で虐殺された葛西家旧臣らの武具や遺品の類および血判状は須江山にある「石の唐洞」と呼ばれる土塚に埋められたとされる[78]。その塚の上には梵字のような模様が刻まれ封印されたと伝えられており、塚を掘り起こすと数代にわたって祟られるという伝説が残っている[78]

お菊松

迫川が佳景山当りを流れていたころ、須江糠塚周辺は船の寄港地となり栄えていた[79]。昔、糠塚にはお菊茶屋として船乗りから評判の茶屋があり、そこにはお菊という老女がいた[79]。ある雨の日に千石船の船頭が茶屋に来て、茶屋にあったが描かれた屏風に目をつけ、「まるで生きているようだ」とほめたたえたところ、お菊が「この鶏は夜になると生きているように鳴くのだ」といった[79][80]。船頭は嘘だと思い、お菊と千石船に積んである大量の米をかけて賭けをすることになった[80]。真夜中になると、屏風の鶏は本当に鳴いたため、船頭は米を泣く泣くお菊に渡した[80]。数日たって船頭が米を携えて再び来店し、「もう一度鶏が鳴くか賭けをしてほしい」と願い、鳴かなかったら「前渡した米を全部返せ」といった[80]。お菊は承諾し、夜更けを待ったが、今度は鳴かなかった[80]。賭けに勝った船頭は前渡した米とお菊の全財産を奪い取り帰った[80]。後でお菊は、屏風の鶏が鳴かないよう、喉に太針が差し込まれているのに気づき、船頭の卑怯な手に憤慨した[80]。結果、ついにお菊は川に身を投げて果てたという[80]。その後、糠塚の地はお菊の怨霊が祟り、船が通行しようとする際に危害を被るようになったため、人々は河岸に塚を建て霊を鎮めたとされる[81]。そこにある一本松はお菊松と呼ばれるようになった[81]

脚注

参考文献

関連項目

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