河南地区 (石巻市)
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| 河南地区 かなんちく | |
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| 国 |
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| 地方 | 東北地方 |
| 都道府県 | 宮城県 |
| 自治体 | 石巻市 |
| 旧自治体 |
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| 面積 |
69.33km² |
| 世帯数 |
7,431世帯 |
| 総人口 |
17,733人 (住民基本台帳、2025年12月31日現在) |
| 人口密度 |
255.78人/km² |
| 隣接地区 | 本庁地区・河北地区・桃生地区 |
| 石巻市役所河南総合支所 | |
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| 北緯38度30分33.555秒 東経141度11分37.356秒 / 北緯38.50932083度 東経141.19371000度座標: 北緯38度30分33.555秒 東経141度11分37.356秒 / 北緯38.50932083度 東経141.19371000度 | |
| 所在地 |
〒987-1101 宮城県石巻市前谷地字黒沢前7[1] |
河南地区(かなんちく、英語: Kanan area[2])は宮城県石巻市の地域区分の一つである[3][4][5]。河南地域(かなんちいき)とも表記される[注 1][3][4][5]。区域は旧桃生郡河南町と概ね一致しており、河南地区の行政に関わる事務を分掌する形で石巻市役所河南総合支所が設置されている[3][1]。
河南地区は石巻市の地区の一つであり、北上川の南に開けた平坦な田園風景と、西部に位置する県立自然公園旭山といった丘陵地帯を擁する自然の変化にとんだ地区である[9]。稲作が盛んに行われている農村地域であり、2010年(平成22年)時点では面積の55%が農用地となっている[10][9]。北上川の豊かな水資源を背景にササニシキやひとめぼれといった米を産しているほか、施設園芸ではキュウリやイチゴといった多様な野菜の生産も実施されているなど、「いしのまき産ブランド」の中核、ひいては「食材王国みやぎ」の一翼を担っている[9]。近年では震災後の内陸部の住宅需要の増加や市内蛇田地区の開発に伴う都市化の進行が進展し、特に南部の須江などを中心に住宅地の整備が行われている[9]。2025年(令和7年)11月末現在で人口・世帯数は石巻市7地区のなかで本庁に続いて2番目の規模を誇り、2024年(令和6年)現在で面積は石巻市7地区のなかで本庁、河北、牡鹿に続いて4番目の規模を誇る[11][4]。
前身自治体の桃生郡河南町は1955年(昭和30年)に鹿又村・北村・須江村・広淵村・前谷地村が合併して成立した町であり、2005年(平成17年)に石巻市・河北町・雄勝町・桃生町・北上町・牡鹿町と合併し、石巻市の一部となった[12][8]。
河南の由来は往古、桃生郡の北上川南部一帯の村々を河南と呼称していたことにちなむ[13][14]。河南町成立時には「深谷町」「末広町」「黄金町」「旭山町」「小金江町」「北上町」「未前町」「瑞穂町」「華南町」「川南町」といった町名案があった[15]。
地理
石巻市の西部に位置する[16]。東部で河北地区と、南東部で本庁地区と、南部で東松島市と、西部で遠田郡美郷町と、北部で遠田郡涌谷町と、北東部で桃生地区と接している[16]。地区の大半は平地であり耕地として拓け、山地は地区西部の旭山(173.8 m)を中心に市町境に沿って連なる[17]。北西部は江合川を境に遠田郡涌谷町と、北東部は北上川本流を中に河北地区・桃生地区と、東および南にかけて本庁地区および東松島市と接する[17]。地層は沖積層が全体の80%を占め、ほかは第三紀層であり、耕地はほとんどが沖積層に含まれている[17]。
河南地区の区域は文献によって桃生町神取字西八反崎を含む場合と含まない場合が存在する。例えば石巻市例規「石巻市行政委員規則」や「石巻市役所支所設置条例」、「石巻市地域まちづくり委員会設置条例」などでは河南地区もしくは石巻市役所河南総合支所管轄区域として桃生町神取字西八反崎を含んでいるが、石巻市が公開する人口統計や桃生地区人・農地プランなどでは桃生町神取字西八反崎を桃生地区として含めている[11][1][18][19]。なお、桃生町神取字西八反崎は河南地区の北部に位置しており、かつては桃生地区所属の桃生町神取と陸続きだったが、改修工事により川が真っ直ぐに整備され分断され、一部は河南地区と陸続きとなった[20]。
河南地区は鹿又地区・北村地区・須江地区・広渕地区・前谷地地区[注 2]の5地区に区分されることがある[21]。鹿又地区・北村地区・須江地区・広渕地区は各大字と同一であるが、前谷地地区は前谷地・和渕を含む。
地形
- 山々
- 根方山
- 龍口山
- 和渕山 - 173.9 m[22]。
- 旭山
歴史
古代
河南地区には往古より人が居住していたとされ、縄文時代の遺跡が発見されており、須江の関ノ入遺跡や北村の桑柄貝塚などといった縄文前期の遺跡や須江の須江糠塚遺跡や北村の朝日貝塚といった縄文中期の遺跡、前谷地の宝ヶ峯遺跡といった縄文後期・晩期の遺跡が多々発見されている[23]。宝ヶ峰遺跡において出土した縄文後期から晩期ごろの土器は加曽利B式土器に相当するものであると解析され、宝ヶ峯式土器と命名された[24]。なお、関ノ入遺跡では1996年(平成8年)3月9日に東北歴史資料館「宮城県旧石器時代遺跡の調査研究事業」の一環で、藤村新一が中期旧石器時代の石器3点を発見し、石巻地方で初めて旧石器時代の遺跡が見つかったとされていた[25][26]。しかし、後に藤村が東北地方の遺跡各所で旧石器時代の石器発掘捏造をしていたことが判明(旧石器捏造事件)し、藤村が関与した宮城県内の旧石器時代の遺跡148ヶ所のうち129ヶ所が旧石器時代の遺跡であるという根拠がないという結論が下され、関ノ入遺跡の石器3点も捏造であったことが判明した[26]。
弥生時代になると石巻地方でも農耕文化が伝わったとされる[23]。しかし、地区内にある弥生時代の遺跡は俵庭遺跡と本鹿又遺跡のみであり、いずれもアメリカ式石鏃もしくは弥生土器が出土しただけで、弥生時代における当地の様子はよくわかっていない[27][28][29]。
古墳時代には江合川・鳴瀬川・北上川といった河川の流域に集落が形成されていった[30]。しかし、仙台平野や大崎平野と比して湿地が多いことから困難な土壌であったと推測される[30]。
飛鳥・奈良時代の石巻地方では矢本横穴墓群(東松島市)に代表されるように数多くの横穴墓群が発見されており、河南地区内では代官山横穴墓群が見つかっている[30]。集落遺跡の須江糠塚遺跡では竪穴建物が7棟と塩釜式土師器片が発見された[31]。
律令政府の支配が当地に及ぶようになると、海道の蝦夷と対立するようになったが、奈良時代後半までには律令制に組み込まれ、石巻地方は黒川以北十郡[注 3]のうち古代牡鹿郡[注 4]に所属した[32][33]。ただし、陸奥按察使上毛野広人が殺害されたり、石巻地方における蝦夷経営の要であった桃生城が襲撃されたりするなど蝦夷経営は順調であったとは言えず、関東の住民を植民させるなどして安定を図った[34][35]。天平宝字年間には牡鹿郡から桃生郡が分立し、牡鹿郡の領域は現在の石巻市本庁・雄勝・河南・牡鹿、東松島市、女川町一帯まで縮小された[36]。その後、平安時代になり、前九年の役・後三年の役が起こると、前九年の役で陸奥国の安倍氏が、後三年の役で出羽国の清原氏が滅亡し、後三年の役に勝利した藤原清衡が陸奥国・出羽国の支配権を、安倍氏・清原氏から継承した[37]。以降、河南地区含む東北地方は奥州藤原氏の支配下に置かれた[37]。平安後期には河南地区や東松島市といった地域が牡鹿郡から深谷保[注 5]として独立し、深谷保司による開発が実施された[40]。その結果、河南地区西部は深谷保、東部(鹿又など)は桃生郡、前谷地や和渕は小田保に属した[41][38]。
中世
中世になると、文治2年(1189年)に奥州藤原氏が源頼朝勢に滅ぼされ、陸奥国・出羽国の郡・保・荘などがすべて没収された[42]。そして、没収された土地は頼朝の配下の将らに与えられ、河南地区には牡鹿郡地頭葛西清重、桃生郡地頭山内首藤経俊、深谷保地頭長江義景が入った[43]。しかし、山内首藤氏は永正の合戦で葛西氏に敗れ滅亡、長江氏は葛西氏に圧迫されて伊達氏の傘下に入り、当地は天正期まで葛西氏の支配を受けた[23]。河南地区内には石崎氏(須江)や伊藤氏(鹿又)、遠藤氏(北村)、男沢氏(不明)、桑島氏(鹿又)といった家臣が配置されたと伝えられている[44][45]。
中世における河南地区の様子を伝える史料は非常に少ない[46]。そのうちの一つは小田保追入村・若木村に関する史料で吾妻鏡の仁治2年(1241年)5月10日条に次の内容(原漢文)が記載されていた[47]。
江民部大夫以康問注奉行の間、非勘の咎あるに就きて、所領一所を召し放されをはんぬ。しかるに傍輩中に御計らあるべきの由、兼日にその法を儲けられ、宮内左衛門尉に賜うべしと云々。これ紀伊五郎兵衛入道寂西と同七左衛門尉重綱と相論する陸奥国小田保追入・若木両村御下知のことなり。
陸奥国小田保は遠田郡涌谷町から河南地区内の前谷地・和渕に至るまでの地域一円と考えられており、先の史料には紀伊入道寂西と紀伊重綱なる人物が一族内で相論しているとある[47][48]。追入村は現在の和渕字笈入と比定されており、若木村は字笈入に隣接する和渕字梨木であると考えられている[48]。この相論の原因は所領の開墾の進行により発生した境界争いであるという見方が有力である[48]。ほかの史料だと、河鏡山光明寺書出によれば「金剛王寺胡銅雲板銘」に奥州桃生郡河股村金剛王寺住持比久暁光応永十七年庚丑六月十日と記載されていたということが伝えられており、このことから河股村は桃生郡に属していたということがわかる[46]。
須江山の惨劇
天下統一をもくろむ豊臣秀吉は小田原攻めを行い、奥州の大名らに参陣を要求した。しかし石巻地方を支配していた葛西晴信は栗原郡三迫領主富沢氏の流庄侵攻や胆沢郡の柏山氏の内乱、元良氏や江刺氏の反乱、薄衣氏と浜田氏の抗争といった、半ば独立していた家臣らの対処に追われ、これに参陣することができなかった[49]。そのため、晴信は秀吉に敵意ありとみなされ、秀吉は木村吉清らを討伐軍として向かわせた[50]。葛西勢は西郡胤元と米谷常秀を大将として桃生郡和渕にて討伐軍を迎え撃ったが敗れ[50]、葛西晴信は佐沼城へと逃れた[51]。佐沼城も陥落し、400年間続いた葛西17代の歴史は幕を閉じたが、葛西・大崎の旧臣らは新領主となった木村の支配に反発し、葛西・大崎一揆を起こした[52]。そもそも木村はもと小領の俄大名で家臣も少なく、また、検地や刀狩りは強引に実施され、年貢の取り立ても逆らうものは極刑に処すなど苛烈であったことから旧臣のみなず住民らにも強い反感を抱かれていた[52]。天正19年(1591年)7月、奥州の覇者として名をはせていた伊達政宗は太閤豊臣秀吉の命により一揆鎮圧に動いた[53]。反乱軍は奥州仕置によって木村伊勢守父子に奪われた旧領地の奪還を目的として佐沼城に立てこもった[54][55]。政宗は佐沼城を攻めるもなかなか落とすことができず、葛西家の重臣である赤井備中守あてに「佐沼城を明け渡し自領に帰れば領地は安堵する」という旨の密書を送ったとされる[55]。そもそも政宗は葛西氏と血縁関係にあった上、改易された葛西晴信を黒川郡大谷荘にかくまうなど、政宗と葛西家重臣の間には信頼関係が成り立っていたとされる[54][55]。ゆえに政宗の計は成功し、一揆勢の武将らは佐沼城から退散し、まもなく佐沼城は陥落、一揆は鎮圧されたが、葛西方の武将たちは政宗の密書通り旧領に帰還したため生き残っていた[56][57]。そんな中、関白豊臣秀次が一揆終息の視察に来るとのことで、政宗は葛西家重臣らに「関白秀次に願って葛西家旧臣らを助けるから桃生郡深谷に参集せよ」という旨の書状を送った[57]。『伊達家治家記録』には
身命は相助けらるるように仰せ上げらるべし、各々在所に罷在る事は如何なれば、先ずもって桃生郡深谷へ参り居るべき旨、仰せ付けされ云々
と記載されている[57]。米谷常秀といった葛西家一門はこれを信じ、深谷須江に馳せ参じた[57][53]。しかし、これは伊達政宗によるだまし討ちで、多くの葛西家旧臣らが伊達方の武将である泉田安芸らによって惨殺された[58]。一揆鎮圧後、河南地区一帯は仙台藩の支配下に入った。
近世
江戸時代になり、河南地区含む石巻地方は仙台藩の支配下に置かれ、奥中郡奉行の管轄下に置かれた[59]。
往古より、河南を含む北上川下流域は度重なる氾濫のため、新田開発が思うように進まなかった[60]。そのため、江戸時代になり、仙台藩の支配下に組み込まれると、藩は北上川の改修に着手した[60]。1606年から1609年にかけて伊達宗直が、1617年から1627年にかけて川村重吉が工事を指揮し、北上川下流域の流路が変更され、河南には野谷地が広がることとなった[60]。新たな新田開発の候補地として桃生郡の旧江合川沿いに広がる低湿地帯が挙がり、当地には1662年(寛文2年)、仙台藩4代藩主伊達綱村の時代、新田開発の灌漑用水供給を目的に広淵沼が築かれた[61]。明治時代までは広淵大堤と称され、深谷地方のみならず前谷地や中津山、石巻など遠方も広淵沼の灌漑地域に含まれた[61]。
近代
名鰭沼から江合川への連絡水路である浮川に1890年(明治23年)設置された明治水門をめぐって、遠田郡と桃生郡の農民の間で水利問題が起こった[62]。のちに桃遠事件(遠桃事件とも)と呼ばれるこの事件は両郡の水利に関する地域差が原因で引き起こされた[62]。そもそも遠田郡は水害になりやすい地域で、桃生郡は干害に襲われやすい地域であったため、遠田郡では排水に苦労し、桃生郡では用水に苦労していたようである[62]。遠田郡と桃生郡は藩政時代より慣行を協議して用水の均衡を保っていたが、遠田郡民がその協定を破り、三軒屋敷水門から江合川に通じる排水路を掘削、これに対し広淵村の遠藤良吉ら率いる桃生郡民は1893年(明治26年)1月26日未明に遠田方によって掘削された新堀を破壊した[62]。これに対抗する形で遠田方は同年4月29日に明治水門に押し寄せ、鍵を奪った[62]。その後も鍵の奪い合いが続き、県の調停などもあり、1895年(明治28年)1月に和解が成立した[62][63]。
1920年(大正9年)、柏木部落北部から前谷地あたりに至るまでの広範囲に広がっていた広渕大溜池の干拓工事が開始された[64][65]。広渕大溜池は江戸時代に広渕沼として湿地に築造された沼であるが、明治時代を過ぎると水源地としての役割を終え、ただの沼になってしまった[65]。大正時代になると人口増加も相まって、沼を干拓して開田にしようとする動きが盛んになっていき、1920年(大正9年)に開始された工事は1928年(昭和3年)に終了し、新たに781 haの土地が生じた[65]。
戦後・平成の大合併まで
1955年(昭和30年)3月21日、鹿又・前谷地・北村・広淵・須江の5か村が合併し、河南町が成立した[15]。合併に際して、鹿又村が北上川を挟んでの合併を主張したり、須江村が石巻市への合併を主張したり、北村の一部を南郷村へだとか、前谷地村と箆岳村が合併するだとか、広淵村が旧深谷村の復活を望んだりと、様々な案が出されたが、国や県からの圧力もあり、5村は河南町として合併することになった[15]。
2003年(平成15年)7月26日には宮城県北部地震が発生[66][67]。域内で震度6弱を記録し、災害救助法の適用を受け、陸上自衛隊第22普通科連隊や仙台市消防局といった機関が災害派遣要請に応じた[68]。建物の被害は2005年(平成17年)時点で全壊216戸、半壊396戸であり、河南町立北村小学校校舎が全壊、公立深谷病院や旭山農業体験実習館が半壊するといった被害が報告された[69][70]。被害は広渕や北村、前谷地で多く見られ、須江や鹿又ではほとんど見られなかった[64][69]。
平成の大合併以降
2005年(平成17年)4月1日、河南町が石巻市・河北町・雄勝町・桃生町・北上町・牡鹿町と合併し、石巻市が成立した[12]。旧河南町の全域および旧桃生町の一部は石巻市の河南地区となり、河南地区を管轄とする行政事務組織として石巻市役所河南総合支所が発足した。
2011年(平成23年)3月11日には東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生した[71]。域内では前谷地で6弱を観測[72]。内陸地域であるにもかかわらず、北上川から遡上してきた波により、最大2.6mの浸水を観測した[72]。津波による直接的な被害はなかったが、停電や断水などによるライフラインの寸断や道路、用排水機場の被害、排水路などを逆流した津波による塩害といった被害を受け、農業や畜産業に大きな被害がでた[67][71]。建物の被害は全壊110棟、大規模半壊99棟、半壊387棟で、約200 haの農地が浸水した[71]。人的被害は犠牲者が22名、行方不明が6名であった[71]。
震災の発生により、内陸部における住宅需要が激増し、河南地区では須江や鹿又などにおいて人口が増加した。また、須江においては震災前、市内門脇町にあったマルハニチロ石巻工場が2017年(平成29年)に移転という形でマルハニチロ新石巻工場が操業を開始するなど、工場の誘致などもなされた。
2025年(令和7年)には、震災以降に増加した内陸部の開発に伴う交通需要への対応、幅員狭い箇所やカーブの急な箇所の是正といった諸問題を解消するため、菰継交差点(石巻市蛇田)を起点とし北村交差点(石巻市北村)に至る延長7.8km(旧道拡幅区間2.1km、バイパス区間5.7km)の石巻河南道路が着工した[73]。石巻河南道路の整備により所要時間が縮小し、平均で5~10分ほど短縮される見込みであるとされ、県下第二位の都市である石巻市と県下第三位の都市である大崎市を結ぶ東西軸の強化による様々な効果が期待されている[74][73][75]。
沿革
- 天正19年(1591年)8月14日 - 須江山にて米谷常秀といった葛西家旧臣らが謀殺される。
- 明治元年(1868年)12月12日 - 高崎藩取締地となる[76]。
- 明治2年
- 明治3年9月25日(1870年) - 登米県に所属[76]。
- 明治4年11月2日 - 仙台県に所属[76]。
- 明治5年
- 1878年(明治11年)
- 1888年(明治21年) - 広渕にあった桃生郡役所が火災により焼失[80]。役所は相野谷村飯野川に移された[80]。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行。前谷地村・鹿又村・深谷村が成立[78][81]。
- 1890年(明治23年)12月15日 - 広淵村字町41に石巻区裁判所広淵出張所(のちの仙台法務局広淵出張所)が開庁[82]。広淵・宮戸・赤井・小野・鷹来・野蒜・須江・大塩・前谷地を管轄した[83][84][注 6]。
- 1893年(明治26年) - 桃遠事件が起こる[85][62]。
- 1903年(明治36年)12月 - 和淵郵便局開業[86]。
- 1912年(大正元年)10月28日 - 仙北軽便鉄道が開通し、前谷地駅・鹿又駅・佳景山駅が設置される[21]。
- 1928年(昭和3年)
- 1955年(昭和30年)3月21日 - 前谷地村・鹿又村・広淵村・北村・須江村の5ケ村をもって河南町が成立[78]。
- 1956年(昭和31年)4月5日 - 地元住民らの要望により石巻線曽波神駅が設置される[88]。
- 1964年(昭和39年)
- 1968年(昭和43年)10月24日 - 国鉄柳津線が開通し、和渕駅が設置される[88]。
- 1970年(昭和45年)12月1日 - 宮城県都市計画区域に広渕・須江の一部が指定される[92]。
- 1987年(昭和62年)4月1日 - 防災行政無線が放送開始[70]。
- 1995年(平成7年)春 - 須江字山崎・字代官・字茄子川字関の入の各一部をもって、須江字しらさぎ台一丁目・字しらさぎ台二丁目・字しらさぎ台三丁目が成立[93][94]。これにより「須江ニュータウンしらさぎ台」が発足[94]。
- 1998年(平成10年)3月 - カントリーエレベーター「こめっ娘」が完成[81][95]。
- 2000年(平成12年)11月 - 大豆等豆類管理施設「まめっ娘」が完成[95]。
- 2001年(平成13年)7月 - 農産物直売所「やさいっ娘」が完成[95]。
- 2003年(平成15年)
- 2005年(平成17年)4月1日
- 河南町が石巻市他5町と合併し、石巻市が発足。河南町は石巻市河南地区となる[81]。
- 旧河南町役場に石巻市役所河南総合支所が設置。
- 2011年(平成23年)3月11日 - 東日本大震災発生。
- 2017年(平成29年)4月 - 須江にてマルハニチロ新石巻工場が操業開始[97]。
- 2025年(令和7年)9月28日 - 広渕にて石巻河南道路(国道108号)の起工式が行われた[98]。
施設
ここでは主要な施設のみを述べる。域内の施設については各大字記事を参照。
公的施設
- 石巻市遊楽館(北村字前山15-1)[99]
- 河南公民館
- 石巻市図書館河南分館
- 北村保育所(北村字幕ケ崎17-2)[100]
- 北村農村交流センター(北村字幕ケ崎55-1)[101]
- 山根中埣転作推進集落センター(須江字沢尻20-2)[102]
- 石巻消防署河南出張所(前谷地字黒沢前5-1)[103]
- 石巻市役所河南総合支所庁舎(前谷地字黒沢前7-7)[1]
- 石巻市河南老人福祉センター(前谷地字黒沢前35)[104]
- 河南農村環境改善センター(和渕字笈入前1-1)[102]
民間事業所
- 鹿又郵便局(鹿又字新八幡前24-3)[105]
- マルハニチロ 新石巻工場(須江字畳石1-6)[97]
- 東北電力ネットワーク石巻電力センター(広渕字馬場屋敷93-1)[106]
- 広淵郵便局(広渕字町165-1)[107]
- 石巻商工信用組合前谷地支店(前谷地字上楼屋5-1)[108]
- 河南郵便局(前谷地字黒沢前25)[109]
- いしのまき農業協同組合河南支店(和渕字笈入前1-21)[110]
- 和淵郵便局(和渕字佐沼川11)[111]
公園・スポーツ施設
経済・産業
農業
農業は往古より、河南地区(河南町)の基幹となる産業である[95]。
平成期になって、いしのまき農業協同組合河南支店は生産者と消費者を直結させる新しい地域農業振興に取り組んでおり、和渕字三工区北に農業振興の三本柱として河南町穀物乾燥貯蔵施設「こめっ娘」と河南町大豆乾燥調製・集出荷施設臨時施設「まめっ娘」、河南町農産物直売所「やさいっ娘」を1998年(平成10年)から2001年(平成13年)にかけて設置された[95]。これら施設の敷地内には河南町低温農業倉庫や河南町給油所「愛菜ステーション」などが併設されており、河南町における農協施設が集約された形となった[95]。このほかに、いしのまき農協河南支店の新施設として広渕 字四工区に堆肥センター「かなん有機センター」がオープンした[95]。
工業・製造業
震災後に、市内内陸部における企業誘致の一環で須江に須江地区産業用地がが設けられた[115]。2022年(令和4年)現在、マルハニチロや富国工業が工場を置き、ユアテックなどといった企業が事業所を置いている[115]。
行政
河南総合支所

石巻市例規「石巻市支所設置条例」により、市長の権限に属する事務を分掌させ、旧自治体行政の継続性を担保するため、旧河南町の区域を所管区域とする総合支所として石巻市役所河南総合支所(英語: Ishinomaki City Hall Kanan General Branch)が設置されている[1][2]。総合支所の長として次長級の「河南総合支所長」職が設けられている[116]。2025年(令和7年)3月時点で職員は河南総合支所長以下78名となっており、石巻市の総合支所としては最大規模である[117]。
石巻市例規「石巻市行政組織規則」により、河南総合支所は地域振興課と市民福祉課の2課編成で様々な行政事務を執行する。地域振興課と市民福祉課はそれぞれ以下のような機関を擁する[118]。
- 地域振興課
- 多目的研修センター(青木・曽波神)
- コミュニティセンター(和渕地区・本町・しらさぎ台)
- 河南農村環境改善センター
- 河南須江農村定住センター
- 河南旭山農業体験実習館
- 河南北村農村交流センター
- かなん有機センター
- 河南須江中埣構造改善センター
- 河南山根中埣転作推進集落センター
- 河南広渕農業担い手センター
- 河南鹿又農業研修センター
- 市民福祉課
- 保育所(前谷地・和渕・鹿又・北村)
- 河南子育て支援センター
- 放課後児童クラブ(前谷地地区・和渕地区・鹿又地区第一・鹿又地区第二・北村地区・広渕地区・須江地区第一・須江地区第二)
- 河南母子健康センター
- 河南老人福祉センター
- 老人憩の家(北村・和渕・砂押・三軒谷地・谷地中)
- いきいきふれあい交流センター(梅木・和渕山根・俵庭・柏木・舘)
河南地域まちづくり委員会
石巻市例規「石巻市地域まちづくり委員会設置条例」により、石巻市の地域の均衡ある発展及び活性化を図るため、旧河南町の区域を対象に石巻市長からのまちづくり施策に関わる諮問に応じる機関として河南地域まちづくり委員会が設置されている[18]。
消防
石巻地区広域行政事務組合例規「石巻地区広域行政事務組合消防本部及び消防署設置条例」(令和3年2月1日改正施行)によれば、消防は石巻地区広域行政事務組合消防本部石巻消防署の管轄となっている[103]。また、地区内には石巻消防署河南出張所が設置されている[103]。
石巻市例規「石巻市消防団の組織等に関する規則」(令和6年7月1日改正施行)によれば、消防団は石巻消防団雄勝地区団の管轄となっており、下部組織に第1分団(北村)、第2分団(前谷地・和渕)、第3分団(鹿又)、第4分団(須江)、第5分団(広渕)が設置されている[注 7][119]。分団の下には部、班が設置されている[119]。
警察
昭和29年宮城県公安委員会規則第4号「警察署の下部機構に関する規則」(平成18年4月1日施行)によれば、河南地区には以下の通り駐在所が存在する[注 8][120][121]。なお、1969年(昭和44年)10月までは須江と北村にも駐在所が存在していた[122]。
| 警察署 | 駐在所 | 受持区域(特記なければ各全部) | 所在地 | 設置 |
|---|---|---|---|---|
| 石巻警察署 | 河南駐在所 | 北村・須江・広渕 | 広渕字町29番地 | 1877年(明治10年)1月に石巻警察署広淵分署として設置[122]。 |
| 前谷地駐在所 | 前谷地(山崎と御蔵場除く) | 前谷地字上楼台6番地の3 | 1894年(明治27年)に齋藤家が請願巡査駐在所として設置[122]。 | |
| 和淵駐在所 | 前谷地(山崎と御蔵場)・和渕 | 和渕字日照1番地 | 1889年(明治22年)に和淵村駐在所として設置[122]。 | |
| 鹿又駐在所 | 鹿又 | 鹿又字新田町浦16番地 | 明治時代に飯野川警察署鹿又巡査駐在所として設置[122]。 |
地名
町・字

河南地区は7大字をもって編成される[123][124]。以下に河南地区所属の大字を挙げる。小字レベルの詳細は石巻市の町・字一覧を参照。
部落
1971年(昭和46年)現在において、河南地区には以下の部落が存在している[125][126][127][128]。
| 部落名 | 大字 | 総合支所までの距離 |
|---|---|---|
| 根方 | 前谷地 | 2.8 km2 |
| 黒沢 | 0.4 km2 | |
| 赤羽根 | 0.5 km2 | |
| 二間堀 | 0 km2 | |
| 中埣 | 0.9 km2 | |
| 駅前 | 0.2 km2 | |
| 沖 | 1.9 km2 | |
| 河原 | 2.9 km2 | |
| 西谷地 | 3.2 km2 | |
| 御蔵場 | 4.1 km2 | |
| 山崎 | 3.2 km2 | |
| 山根 | 2.8 km2 | |
| 下谷地 | 1.0 km2 | |
| 町上 | 和渕 | 4.8 km2 |
| 町 | 5.0 km2 | |
| 笈入上 | 7.0 km2 | |
| 笈入下 | 4.6 km2 | |
| 中山 | 鹿又 | 5.5 km2 |
| 上谷地 | 7.3 km2 | |
| 梅木 | 7.9 km2 | |
| 四家 | 8.6 km2 | |
| 新田町 | 10.1 km2 | |
| 本町 | 11.3 km2 | |
| 大巻 | 12.1 km2 | |
| 曽波神 | 14.6 km2 | |
| 道的 | 11.1 km2 | |
| 三軒谷地 | 12.1 km2 | |
| 谷地中 | 11.7 km2 | |
| 糠塚 | 須江 | 5.0 km2 |
| 細田 | 5.7 km2 | |
| 館 | 7.5 km2 | |
| 沢田 | 7.0 km2 | |
| 山根 | 10.3 km2 | |
| 中埣 | 10.8 km2 | |
| 柏木 | 広渕 | 6.2 km2 |
| 砂押 | 6.6 km2 | |
| 町下 | 5.5 km2 | |
| 町上 | 5.5 km2 | |
| 新田 | 7.1 km2 | |
| 青木 | 北村 | 8.4 km2 |
| 桑柄 | 6.4 km2 | |
| 大番所 | 6.6 km2 | |
| 久米田 | 5.3 km2 | |
| 軽井沢 | 7.1 km2 | |
| 踏返 | 4.2 km2 | |
| 大沢 | 3.8 km2 | |
| 表沢 | 5.1 km2 | |
| 俵庭 | 3.4 km2 | |
| 小崎 | 1.5 km2 | |
| 箱清水 | 1.9 km2 |
行政区
石巻市は世帯数及び人口の調査、世帯台帳の整備、市行政の周知、連絡、通知のための公文書の配布伝達を円滑に行うために、行政区を定めている[124]。石巻市例規「石巻市行政委員規則」によると、河南地区には以下のような行政区が設置されている[124]。
- 根方
- 黒沢
- 駅前
- 定川
- 山崎
- 和淵山根
- 和淵町上
- 和淵町
- 笈入
- 中山・上谷地
- 梅木
- 四家
- 新田町
- 本町
- 道的
- 三軒谷地
- 谷地中
- 曽波神
- 中埣
- 山根
- しらさぎ台
- 沢田
- 舘
- 糠塚
- 砂押
- 柏木
- 町下
- 新田
- 青木
- 大番所
- 朝日
- 大沢
- 箱清水
- 表沢
- 俵庭
- 小崎
都市開発
石巻広域都市計画
石巻広域都市計画は石巻市内本庁地区および河南地区にかかる都市計画であり、2025年(令和7年)現在においては河南地区内の1,240 haが石巻都市計画区域に含まれている[129]。河南地区(旧河南町)は1970年(昭和45年)12月1日に宮城県告示986号に基づいて都市計画区域の一部に認定された[130]。
しらさぎ台の宅地化
しらさぎ台は1995年(平成7年)春に須江の丘陵部に誕生したニュータウンであり、東日本大震災後の移転需要で人口が急増した住宅街である[131]。しらさぎ台の建設計画が具体的に始動したのは1988年(昭和63年)8月5日の河南町関ノ入土地区画整理組合の設立認可以降であり、埋蔵文化財の調査の後、1992年(平成4年)から本格的な工事が実施され、かつては「何もない真っ暗な山だった」と評されていた土地に36.02 haのニュータウンが造成された[93][94][131]。ニュータウンが造成された須江字山崎・字代官・字茄子川・字関ノ入の各一部は須江字しらさぎ台一丁目・字しらさぎ台二丁目・字しらさぎ台三丁目と改められた[93][94]。完成後、10年ほどで宅地の約3分の1が売れたが、景気悪化で閑散とした状態が長く続いた[132]。震災以後、内陸に土地を求めた被災者の移転需要が高まり、しらさぎ台では空き地が次々と埋まり、公示地価の上昇率が2012年から3年連続で全国トップとなる様相であった[131]。
教育
高等学校
中学校
中学校に関しては1970年(昭和45年)9月に池田文治郎町長が設置した河南町中学校統合促進委員会が、1971年(昭和46年)2月に町内の5校(前谷地・鹿又・須江・北村・広渕)を統合して一校にすべしという答申をして以降、「中学校の統合」が行政と町民の間で度々議論された[134]。町民の間では、一部(統合した中学校の建設予定地周辺に住む住民など)を除いて統合反対の論調が根強かったが[134]、歴代町長や町議会は概ね一貫して統合計画を支持するという立場にあった[135][134]。町教育委員会は一校統合に反対し独自の三校再編案[注 9]を提示するなど中学校統合問題は次第に複雑になっていき、状況を見かねた市川康盛町議会議長は「冷静な第三者機関に計画策定を委託する」ということを提案し、県教育委員会に依頼した[137]。県教育委員会は河南町の政治問題と化していた中学校統合問題に介入することを避け、東北大学の研究グループに依頼したが、東北大学も政争の具にされかねないということで辞退した[137]。1983年(昭和58年)10月に池田敬が町長職に就くと、教育委員が刷新され新たに二校案が浮上した[137]。これは和渕・鹿又・須江の学区を東、前谷地・北村・広渕を西と区分するものであり、1986年(昭和61年)1月18日の臨時教育委員会にてこの案が正式に決定し、その後、議会もこれを承認した[138]。十数年にも及んだ中学校統合問題に疲弊した住民らもこの案に同意し、須江に河南東中学校が、北村に河南西中学校が設置されるに至った[138][93]。
小学校
廃校
交通
鉄道

道路
- 宮城県道16号石巻鹿島台色麻線
- 宮城県道21号河南米山線
- 宮城県道29号河南築館線
- 宮城県道43号矢本河南線
- 宮城県道151号河南南郷線
- 宮城県道191号鹿又広渕線
- 宮城県道257号河南登米線
- 宮城県道265号河南石巻港インター線
- 1・3・1号東松島石巻幹線
- 3・2・1号河南石巻工業港線
- 3・4・30号山根茄子川線
- 3・6・5号河南川尻線
バス
- 路線バス
乗り合いタクシー
世帯数と人口
域内の町・字の2025年(令和7年)4月30日現在の世帯数と人口は以下の通りである[11]。
| 大字 | 世帯数(戸) | 人口(人) |
|---|---|---|
| 鹿又 | 2,062 | 4,892 |
| 北村 | 854 | 1,797 |
| 須江 | 1,377 | 3,561 |
| 広渕 | 1,480 | 3,525 |
| 前谷地 | 1,013 | 2,481 |
| 和渕 | 615 | 1,543 |
| 桃生町神取(一部) | 8 | 17 |
人口の推移
| 桃生郡河南町および石巻市河南地区の人口推移[11] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 総務省統計局 国勢調査より | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||