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四条隆顕

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時代 鎌倉時代中期-後期
生誕 寛元元年(1243年)
死没 建治3年(1277年)以降
改名 隆顕→顕空(法名)
 
四条 隆顕
時代 鎌倉時代中期-後期
生誕 寛元元年(1243年)
死没 建治3年(1277年)以降
改名 隆顕→顕空(法名)
別名 善勝寺大納言、(号)四条、大宮
官位 正二位、権大納言
主君 後深草天皇→亀山天皇→後宇多天皇
氏族 四条家
父母 父:四条隆親、母:足利能子(足利義氏の娘)
兄弟 房名、隆顕、鷲尾隆良、隆任、隆遍、近子、隆子、識子
子 隆任、隆実、隆清、吉田定房室
養子:隆資(隆実の子)
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四条 隆顕(しじょう たかあき)は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿。権大納言・四条隆親の次男。官位は正二位・権大納言。善勝寺長者。善勝寺大納言と称した。法名は顕空。

正嘉元年(1257年)参議に任ぜられ、公卿に列する。建治2年(1276年)父・隆親が大納言に再任された代わりに権大納言を辞する。翌3年(1277年)出家。隆親との不仲が出家の理由とされる[1]。出家後の消息は不明。

以降、四条家の嫡流は異母兄・房名の系統に移る。隆顕の系統はその後隆実・隆資・隆俊と続くも、南北朝時代に断絶した。

人物

鎌倉時代頃に成立した日記『とはずがたり』の作者・後深草院二条は姪(隆顕の兄弟姉妹・近子の娘)にあたり[2]、二条の父・源雅忠が文永9年(1272年)に亡くなってからは彼女の後見役となった[3][4]。また、二条の恋人「雪の曙」に比定される西園寺実兼とも親しかった[5][6]。

官歴

『公卿補任』による

系譜

参考文献

脚注

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