固倫和敬公主

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続柄 乾隆帝第三皇女
配偶者 セブテンバルジュル(色布騰巴勒珠爾)
固倫和敬公主
続柄 乾隆帝第三皇女

出生 雍正9年5月24日(1731年6月28日)
死去 乾隆57年6月28日(1792年8月15日)
配偶者 セブテンバルジュル(色布騰巴勒珠爾)
子女 アムバ・ゲゲ(大格格)
ドゥイチ・ゲゲ(四格格)
イラチ・ゲゲ(三格格)
オルジェイテムル・エルケババイ
家名 アイシンギョロ氏(愛新覚羅氏
父親 乾隆帝
母親 孝賢純皇后
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固倫和敬公主(こりんわけいこうしゅ、 雍正9年5月24日(1731年6月28日) - 乾隆57年6月28日(1792年8月15日))は、乾隆帝の娘。母は孝賢純皇后嘉慶帝の異母姉。

宝親王弘曆(後の乾隆帝)とそのダ・フジン(嫡福晋、正室)フチャ氏(富察氏、後の孝賢純皇后)の娘として生まれ、寧寿宮勤太妃によって育てられる。 フチャ氏は弘曆との間に他にも数人の皇子女を儲けていたが、和敬公主以外は皆夭逝した為、成人したのは和敬公主のみであった。

乾隆12年(1747年)3月、清の皇室と深い縁戚関係にあったホルチン部ジャサクト・ホショイ・ダルハン(扎薩克和碩達爾漢)親王家の当主セブテンバルジュル(色布騰巴勒珠爾)に降嫁するが、乾隆帝が愛娘が遠いモンゴルに行くのを嫌がった為、北京に屋敷を与えられ、夫婦ともどもそこに居住し、清の皇室から多大な経済援助を受けながら生活した。 二人の夫婦仲はとても良く、後の輔国公、オルジェイテムル・エルケババイ(鄂勒哲特穆爾額爾克巴拜)など少なくとも5人の子供がいたとされる。

乾隆57年(1792年)6月28日に62歳で亡くなり、北京の現在の朝陽区東壩鎮付近に夫とともに埋葬されたとされる。

子女

脚注

参考文献

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