綿徳
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乾隆12年(1747年)7月6日亥の刻に出生。生母は永璜の嫡福晋であり、軽車都尉デハイ(徳海)の娘であるイラリ氏(伊拉里氏)であった。
乾隆15年(1750年)、永璜が死去すると、綿徳は祖父である乾隆帝の特別の恩典により、父が遺した和碩定親王の爵位を襲封した。
乾隆37年(1770年)には多羅定郡王へ降格された。
乾隆41年(1774年)、綿徳は礼部郎中の秦雄褒と私的に往来し、書画を贈答していたことが問題視され、爵位を剥奪されたうえ、清西陵の守衛を命じられ、その爵位は弟の綿恩が継承した。
乾隆42年(1775年)、奉恩鎮国公に封ぜられ、のち乾隆49年(1782年)には再びグサイ・ベイセ(固山貝子)に復した。
乾隆51年(1784年)9月、綿徳は陳世官の処方した薬を服用した後、喘息や発汗は収まり、諸症状も大いに軽減したが、体力は衰弱し、脚や膝のむくみが残っていた。同月27日、病没。享年40。