国尊王

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国尊王(くにたかおう、生没年不詳)は、鎌倉時代皇族三品惟明親王の子。無位無官か。御称号片野宮あるいは交野宮

幼少時は、傍系の二世王であったため出家する予定で、醍醐寺に入寺していた兄・聖海の縁で、醍醐にて外祖父の白河染殿僧都に養育されていた。

しかし承久3年(1221年)、承久の乱が起きて、叔父の後鳥羽上皇が配流され、その孫である仲恭天皇鎌倉幕府によって廃位される。後鳥羽上皇の血を引かない在俗の皇子が皇位に就く必要が生じ、片野宮と茂仁王(守貞親王の皇子)が候補に挙がるが、天皇を後見して院政を行う治天の君も併せて必要とされる中で、直前に父の惟明親王を亡くした片野宮は候補から外れ、茂仁王が皇位を継承する(後堀河天皇[1]

その後、聖海は元仁2年(1224年)12月に19歳の若さで醍醐寺座主となり、片野宮も後を追って出家する予定であったと想定されるが、翌嘉禄元年(1225年)、鎌倉幕府の命令により出家を止められる[2]。これは、後堀河天皇が虚弱で皇子の誕生が危ぶまれたことから、鎌倉幕府が万一の用意として国尊王を皇嗣の候補として考慮したためと想定される[3]。また、鎌倉幕府の意向を受けて、大納言堀川通具は進んでその扶助に当たることを希望した[4](惟明親王の後室は源通資の娘で通具の従姉にあたる[5])。しかし、嘉禄3年(1227年)通具は没してしまう。

その後、元服朝廷への出仕もせず有髪の姿で遊女で有名な江口神崎付近で遊び暮らしていた。寛喜元年(1229年)背丈よりを伸ばした姿で関東へ赴き、鎌倉鶴岡八幡宮の拝殿に座って下向の意思を表明した。驚いた幕府から帰京すべき旨を伝えられるが、京に帰っても住む所はなく、元服も出家の予定もない、ただここに居住したいと懇望した。結局、然るべき僧侶のもとで出家するようにと、幕府によって武士一人を付けられて京都に送り返されてしまい、再び醍醐に住まわされ、出家し、兄の縁で醍醐寺大智院に入ったという[6]。この前年の安貞2年(1228年)、後堀河天皇には暉子内親王が誕生しており、将来の皇子誕生の可能性が出てきたことで国尊王を俗世に留めておく必要性が低くなった事情も考えられている[1]

醍醐宮栗野宮は、交野宮が晩年に還俗し「国尊王」と称してからもうけた男子であると考えられる[7]

系譜

脚注

参考文献

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