国立ハンセン病療養所
日本の厚生労働省の施設等機関のひとつ
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概要
明治の初め、日本でのハンセン病専門病院は有志の篤志家、宗教家や外国人の運営する私設病院だけであったが、渋沢栄一や光田健輔による世論喚起によって、1907年にらい予防法が成立し、連合道府県立として公立のらい療養所が全国5か所に設立された[3][4]。しかし、実際の患者数に対して収容定員が圧倒的に足りなかったため、拡張と新設の必要があり、さらに本籍地が明らかでない患者の受け入れができないなど、道府県では対応できないケースも多かったので、国立の療養所を新たに設けることに決定した[3][5][6][7]。そして、既存の公立療養所を拡張する一方で、昭和初期に4つの国立らい療養所が新設された[8]。また、対応の遅れていた沖縄県には2つの臨時国立療養所が設置された[9][10][11]。その後、1941年に道府県立療養所が厚生省所管の国立療養所に移行し、また戦時中に静岡に設置されたハンセン病傷痍軍人収容のための療養所が戦後に国立へ移管され、さらに1943年に完成した奄美の国立療養所を含め米国民政下にあった沖縄および南西諸島の療養所が国立復帰すると、全国に13の国立ハンセン病療養所が存在するに至った[8][12][13][14][15]。
厚生労働省が運営していた国立病院・国立療養所の大半の施設は、2000年代に国立病院機構や国立高度専門医療研究センター等の独立行政法人に移行したが、国立ハンセン病療養所は移行の対象とはされず、2022年時点も引き続き厚生労働省の施設等機関として運営されている[16]。そのため、国立病院機構等とは異なり、職員の身分は国家公務員である。
ハンセン病患者の強制隔離を違憲とした判決の確定(2001年、下記参照)を受けて日本国政府は入所者が希望する療養所で生活できることを約束しているが、療養所をどうするかの「将来構想」策定は難航しているほか、全国ハンセン病療養所入所者協議会によると高齢化などで3つの自治会が活動を休止している[1]。
沿革
- 1907年(明治40年)3月18日、法律第11号「癩(らい)予防ニ関スル件」発布。無癩県運動を展開し、日本全国を5つに区分して「らい」患者の収容施設(連合道府県立「らい」療養所)を設立。
- 1920年(大正9年)
- 1921年(大正10年)11月16日、医学士会の定時総会において、らい病救治に関する決議案を可決し、国立らい療養所は、隔離された患者が自治する村の中心機関となるべきことが主張された[19]。
- 1926年(大正15年-昭和元年)12月、第52帝国議会において、次年以降3ヵ年の継続事業として、国立らい療養所の新営費用の予算が成立する[7]:41-42[20]。
- 1927年(昭和2年)10月11日、国立癩療養所官制が公布され、国立癩療養所は内務大臣の管理の元、らい患者の救護と療養にあたる施設として職制が定められる[21]。
- 1930年(昭和5年)11月20日、岡山県邑久郡裳掛村に国立らい療養所長島愛生園が開所[22]。
- 1931年(昭和6年)3月7日、沖縄県宮古郡平良町字島尻に沖縄保養院宮古療養所が開院[23]、1933年(昭和8年)10月19日に沖縄振興計画により臨時国立療養所宮古療養所と改称[24]。
- 1932年(昭和7年)10月6日、群馬県吾妻郡草津町に国立らい療養所栗生楽泉園が開所[25]。
- 1936年(昭和11年)10月28日、鹿児島県肝属郡大姶良村に国立らい療養所星塚敬愛園が開所。
- 1938年(昭和13年)1月11日、厚生省発足に際し、国立癩療養所官制が改正され、国立癩療養所の管轄は内務省から厚生省へ移される[26]。
- 1938年(昭和13年)11月10日、沖縄県国頭郡羽地村に臨時国立療養所国頭愛楽園が開園(1937年5月、沖縄MTL(沖縄キリスト教救癩協会)相談所 → 1938年2月1日、県立羽地療養所(仮称) → 臨時国立療養所)[27]。
- 1939年(昭和14年)10月27日、宮城県登米郡新田村に国立らい療養所東北新生園が開所[28][29]。
- 1941年(昭和16年)、連合道府県立の5療養所および沖縄振興会経営の2臨時国立療養所が厚生省の管轄に移管し、6療養所は改称する[30]。
- 全生病院 → 多摩全生園
- 北部保養院 → 松丘保養園
- 外島保養院 → 光明園(1938年に移設改称[31]) → 邑久光明園
- 大島療養所 → 大島青松園
- 九州療養所 → 菊池恵楓園
- 宮古療養所 → 宮古南静園
- 国頭愛楽園
- 1943年(昭和18年)4月5日、鹿児島県大島郡三方村に国立らい療養所奄美和光園を設立[32][注釈 1]
- 1944年(昭和19年)12月15日、軍事保護院所管の傷痍軍人駿河療養所の設置が告示される[34] 。
- 1945年(昭和20年)12月1日、沖縄および奄美の療養所を除く9国立療養所が厚生省予防局から新設の医療局に所管換えされ、また駿河療養所も軍事保護院から厚生省医療局に移管される[35]。
- 1946年(昭和21年)
- 1月、宮古南静園が米国軍政管轄下に入る[36][37]。
- 2月2日、奄美和光園は、米軍軍政下に置かれ、10月に臨時北部南西諸島政庁の管理となり、1950年(昭和25年)1月の奄美群島政府発足後は群島政府衛生部の管轄となる[38][39][40]。
- 4月、沖縄占領軍の管理下で戦災後の再建工事をしていた国頭愛楽園が米国軍政府の所管となる[41][42]。
- 11月4日、医療局官制の一部改正(勅令514号)による国立らい療養所官制(1927年、勅令308号)の廃止に伴い、国立らい療養所は医療局の管理の下、他の国立病院および国立療養所と共に統括管理されるようになり[43][44]、各施設名称は「国立らい療養所」から「国立療養所」に改められる[45][注釈 2]。
- 1952年(昭和27年)4月1日、琉球政府設立に伴い、宮古南静園、国頭愛楽園および奄美和光園は琉球政府厚生局の所管となる[37][42][47]。
- 1953年(昭和28年)8月、「癩予防法」が「らい予防法」に改正される。
- 1955年(昭和30年)7月1日、多摩全生園に隣接して設置された国立らい研究所が開所[48]。
- 1962年(昭和37年)6月1日、国立らい研究所が国立多摩研究所と改称する[48]。
- 1972年(昭和47年)5月15日、沖縄復帰に伴い、宮古南静園と国頭愛楽園が厚生省の所管となる[40]。
- 1993年(平成5年)6月25日、高松宮記念ハンセン病資料館(現:国立ハンセン病資料館)が国立療養所多磨全生園敷地内に開館。
- 1996年(平成7年)4月1日、90年に及ぶ隔離収容政策であった「らい予防法」が廃止され、新たに「らい予防法の廃止に関する法律」が制定。厚生省は「らい」の呼称を「ハンセン病」と改める[49]。
- 1997年(平成9年)4月、国立多摩研究所が改組により国立感染症研究所ハンセン病研究センターとなる[50] 。
- 2001年(平成13年)
- 2012年(平成24年)
- 2014年(平成26年)5月、全国入所者数:1,840人、平均年齢 83.6歳[66]。
- 2024年(平成26年)5月、全国入所者数:718人、平均年齢 88.3歳[67]。
施設名と所在地
カッコ内の入所者数は2022年5月1日時点[1]。
- 国立療養所松丘保養園(青森県、53人)
- 国立療養所東北新生園(宮城県、42人)
- 国立療養所栗生楽泉園(群馬県、48人)
- 国立療養所多磨全生園(東京都、117人)
- 国立駿河療養所(静岡県、47人)
- 国立療養所長島愛生園(岡山県、115人)
- 国立療養所邑久光明園(岡山県、64人)
- 国立療養所大島青松園(香川県、40人)
- 国立療養所菊池恵楓園(熊本県、149人)
- 国立療養所星塚敬愛園(鹿児島県、82人)
- 国立療養所奄美和光園(鹿児島県、17人)
- 国立療養所沖縄愛楽園(沖縄県、108人)
- 国立療養所宮古南静園(沖縄県、45人)