比屋根坂石畳道
1609年、薩摩藩の琉球侵攻時に戦場になったと伝えられる石畳道。道幅は1.5メートルから3メートル。約400年前から明治末期まで使われているといわれ、石畳は仲泊遺跡の岩陰住居跡まで続いている[9]。魚群を発見するための崖という意味の景勝地「イユミーバンタ」に続く[10]。東側の石畳は98メートル、西側は76.5メートル。坂の全長は400メートルあり一部は急な坂道となっている[11]。
恩納村の宿道には、当時の一里ごとに人口塚や自然の山を利用した一里塚がもうけられ、旅人の道程の目安とされていた。真栄田の一里塚、仲泊の一里塚、谷茶一里塚、南恩納の馬場一里塚、安富祖一里塚、名嘉真浜原一里塚等の5ヶ所が設置されていたが、海路の拡張工事などで消滅し、現在では仲泊の一里塚、真栄田の一里塚だけが残っている[12]。一里塚が恩納村以外にもあったかについては不明であり、恩納村のみに限って作られていたのではないかと思われる[13]。
仲泊の一里塚は、自然と丘(琉球石灰岩)を利用した北側の塚と南側の土塚の二基があり、本来は一続きであったと思われる[12]。
真栄田の一里塚は土と炭を混ぜ合わせた土塚でその上部には琉球松等が植栽されている。宿道の両端に対で設置されていたが、一方の塚は畑地開墾により破壊され、復元されたものである[14]。
国頭方西海道の交通の難所として知られる多幸山には、山の中腹の琉球石灰岩の大きな岩がある。この岩の上から旅人の持ち物を奪うフェーレーが出たことから「フェーレー岩」と呼ばれている[15]。フェーレーとは、追いはぎのこと[16]。
岩の上から旅人の荷物を鉤のついた棒でひっかけて奪っていたが、持ち物を奪うことが目的であり、傷つけたり殺したりすることは無かったようである[15]。
また、フェーレー退治の物語が二つ伝承されている[15]。
ひとつは那覇泊村の空手の達人松茂良興作が[14]、フェーレー岩の下を通りかかったとき、従者の持ち物を奪おうとフェーレーが棒を伸ばしたが、松茂良はすかさず棒をつかんで、フェーレーを引きずり下ろし、フェーレーを取り押さえたという話である。
ふたつ目は、糸満生まれの娘チルーの話である[15]。
山田城の北側に位置する崖下の谷川(ヤーガー)[17]に石を積み上げて作られた架けられたアーチ状の石造りの橋[18]。
国頭方西海道の経路にふくまれる[19]。石は琉球石灰岩[20]。
石が崩れ落ちたため、2枚は新しいものを、4枚は既存のものとを6枚組み合わせて直された。
また、谷側周辺は樹木が生い茂り、夏でも涼しい所である。山田の人々が夕涼みにきたと言われている。
石灰岩の岩の奥には、昔は男女の恋を育くむ所ともいわれた沐浴場がある[19]。