土田誠一

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土田誠一

土田 誠一(つちだ せいいち、1887年明治20年〉2月21日[1] - 1945年昭和20年〉10月2日[1])は、日本の論理学者[2]古神道学者郷土史家東京帝国大学助教授神宮皇学館教授、旧制成蹊高等学校校長。

1887年(明治20年)、秋田県由利郡矢島町(現・由利本荘市矢島町)に生まれる[1]秋田師範学校では田村徳治・菊地寅七とともにクラスの三羽烏に数えられた[3]。1907年(明治40年)、同校を卒業し[4]東京高等師範学校英語科を経て[4]、1915年(大正4年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業した[1]井上哲次郎の門下生であった[2]。東京帝国大学大学院へと進み[4]、1919年(大正8年)、東京帝国大学文科大学助教授となる[1]。1921年(大正10年)、東京帝国大学文学部助教授[1]。1925年(大正14年)には、論理学研究の為ドイツイギリスアメリカに留学した。1927年(昭和2年)に帰国し、旧制東京高等学校教授兼東京帝国大学助教授となる[1]。1930年(昭和5年)、誠一の口述筆録『矢島史談』を出版。1932年(昭和7年)、神宮皇学館教授に任官され[1]在官中に著書『伊勢神道と尊皇思想』、『神と日本』などを書いた。1937年(昭和12年)、同教授を依願退官し旧制成蹊高等学校校長兼成蹊小学校校長に就任[1]。教育方針は神(かん)ながらの道に立脚した日本人教育の実践であった[5]。1945年(昭和20年)10月2日に腸の急性疾患で死去し[6][1]矢島町の龍源寺に葬られた[7]。同日付けで勲四等瑞宝章を叙勲[1]。1977年(昭和52年)、三十三回忌の法要に際し誠一の同僚・後輩・門下生らの寄稿集『土田誠一先生の思いで』(寄稿者:島津忠彦小池藤五郎桶谷繁雄中村登滑川道夫内田藤雄ほか131人)が刊行された[4]。矢島町町民歌『矢島の歌』は彼の作詞である[2]

経歴

栄典

位階
勲章

先祖・家族・親族

土田家の先祖について開山神社の『開山神社縁起』の記述によれば、嘉祥3年(850年)に美濃国可児郡土田村(現・岐阜県可児市土田)から出羽国荒沢郷(現・矢島町荒沢)に来て、同年6月15日に鳥海山麓の矢島口山道(東北登山道)を開拓した「比良衛」・「多良衛」兄弟(開山神社の祭神)が開祖と伝わる[18]。その子孫は、江戸中期から明治に至るまで矢島藩主生駒家に仕えた家柄であった[7]

遠縁に、勤王の志士土田衡平がおり、妻の父高嶺秀夫東京美術学校校長で、義兄の清水与七郎日本テレビ放送網社長(第2代)。子に、警視総監(第70代)の土田國保国立歴史民俗博物館館長(第2代)の土田直鎮国税庁長官(第25代)の土田正顕。国保の岳父に野口明 (教育者)。孫には國保長男で東京大学名誉教授の土田龍太郎、國保次男で早稲田大学教授の土田健次郎、國保三男で東京藝術大学教授の土田英三郎がいる。

作詞

出版物

脚注

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