在原行平

日本の公卿・歌人 From Wikipedia, the free encyclopedia

在原 行平(ありわら の ゆきひら)は、平安時代初期から前期にかけての公卿歌人平城天皇の第一皇子である弾正尹阿保親王の次男[1](または三男)。官位正三位中納言在中納言在民部卿とも呼ばれた。小倉百人一首では中納言行平

時代 平安時代初期 - 前期
生誕 弘仁9年(818年
別名 在中納言、在民部卿
概要 凡例在原 行平, 時代 ...
 
在原 行平
在原行平像
時代 平安時代初期 - 前期
生誕 弘仁9年(818年
死没 寛平5年7月19日893年9月6日
別名 在中納言、在民部卿
官位 正三位中納言
主君 淳和天皇仁明天皇文徳天皇清和天皇陽成天皇光孝天皇
氏族 在原朝臣
父母 父:阿保親王
兄弟 兼見王、仲平、行平守平業平
行慶、源弘室、女子
遠瞻友于、基平、文子
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経歴

天長3年(826年)父・阿保親王の奏請により兄弟と共に在原朝臣姓を賜与され、臣籍降下する。

承和9年(843年)に承和の変後急死した阿保親王の子息のうち、比較的順調な昇進ぶりを示し、特に民政に才を発揮した。承和7年(840年仁明天皇蔵人に任じられ、翌承和8年(841年従五位下侍従に叙任される。承和13年(846年)従五位上・右近衛少将に叙任されると、以降は主に武官と地方官を務める。

文徳朝斉衡2年(855年)正月の除目従四位下に叙せられると同時に因幡守に任ぜられ地方官に転じる。『小倉百人一首』に採られた和歌は、このときの任国への下向に際してのものである。地方赴任2年余りで、斉衡4年(857年兵部大輔として京官に復し帰京する。なお、『古今和歌集』によれば、理由は明らかでないが文徳天皇のとき須磨に蟄居を余儀なくされたといい、須磨滞在時に寂しさを紛らわすために浜辺に流れ着いた木片から一弦琴である須磨琴を製作したと伝えられている。なお、謡曲の『松風』は百人一首の行平の和歌や、須磨漂流などを題材としている。

清和朝では左京大夫大蔵大輔左兵衛督を務めながら、貞観4年(862年)従四位上、貞観8年(866年正四位下と昇進し、貞観12年(870年参議に補任され公卿に列す。貞観14年(872年)には蔵人頭を兼ねるが、参議が蔵人頭を兼帯した例は非常に珍しい。貞観15年(873年従三位大宰権帥に叙任される。貞観18年(876年)大宰権帥として、九州の統治に関する2つの事項の起請を提出し、許されている[2]

  • 対馬島の年粮について、九州地方の六ヶ国(筑前筑後肥前肥後豊前豊後)から運搬する負荷が非常に大きいため、壱伎島水田100町を営んでこれに充てること。
  • 肥前国松浦郡の庇羅・値嘉の両郷について、郷長の権力が弱まっていることや、外交上重要な島であることから、庇羅郷を上近郡、値嘉郷を下近郡として郡に昇格して郡領を置くとともに、値嘉島として肥前国から分立させ島司を置くこと。

元慶5年(881年在原氏の学問所として大学別曹奨学院を創設した。これは朱雀大路東・三条大路の北一町を占め、住居を与えて大学寮を目指す子弟を教育したもので、当時は藤原氏勧学院と並んで著名であった。なお、行平の死後、醍醐天皇のときに奨学院は大学寮の南曹とされた。元慶6年(882年)正三位・中納言に至るが、仁和3年(887年)70歳の時、中納言兼民部卿陸奥出羽按察使を致仕して引退した。

宇多朝寛平5年(893年)7月19日薨去。享年76。最終官位は前中納言正三位。

和歌

中納言行平(百人一首より)
在原行平(菊池容斎『前賢故実』)

勅撰歌人として『古今和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に合計11首入集[3]。また、民部卿行平歌合(在民部卿家歌合)を880年代中頃に主催したが、これは現存する最古の歌合である。

立ち別れ いなばの山の みねにおふる まつとし聞かば 今帰り来む『百人一首』第16番

[現代語訳:これでお別れです。でも因幡の国の山に生える松のように「ここでずっと待っているよ」とあなたが言うならばすぐにでも帰って来ましょう。]

この歌は現代において、いなくなった飼猫の帰還を願う猫返しのまじないとしても、伝えられ親しまれている[4][5]

官歴

注記のないものは『六国史』による。

さらに見る 和暦(西暦), 月日(旧暦) ...
在原行平の官歴表
和暦(西暦) 月日(旧暦) 年齢[注釈 1] 事項
天長3年(826年 日付不詳 9歳 臣籍降下在原朝臣姓
承和7年(840年 1月 23歳 蔵人[6]
12月 辞蔵人[6]
時期不詳 日付不詳 不明 正六位上
承和8年(841年 11月20日 24歳 従五位下
承和10年(843年 2月10日 26歳 侍従
承和13年(846年 1月7日 29歳 従五位上
1月13日 左兵衛佐
7月27日 右近衛少将
承和15年(848年 1月13日 31歳 伊予介
仁寿3年(853年 1月7日 36歳 正五位下
1月16日 備中権介
仁寿4年(854年 3月14日 37歳 兼備中介
斉衡2年(855年 1月7日 38歳 従四位下
1月15日 因幡守
斉衡4年(857年 1月19日 40歳 兵部大輔、因幡守如元
天安2年(858年 2月5日 41歳 中務大輔
4月2日 左馬頭
天安3年(859年 1月13日 42歳 播磨守
貞観2年(860年 6月5日 43歳 内匠頭
8月26日 左京大夫
貞観4年(862年 1月7日 45歳 従四位上
1月13日 信濃守
貞観5年(863年 2月10日 46歳 大蔵大輔、信濃守如元
貞観6年(864年 1月16日 47歳 備前権守
3月8日 左兵衛督、備前権守如元
貞観8年(866年 1月7日 49歳 正四位下
貞観10年(868年 5月26日 51歳 備中守[6]
貞観12年(870年 1月13日 53歳 参議
1月26日 検非違使別当、左兵衛督備中守等如元
貞観13年(871年 日付不詳 54歳 備中守[6]
貞観14年(872年 8月25日 55歳 蔵人頭[6](参議が蔵人頭を兼帯する珍しい例)
8月29日 左衛門督
10月14日 別当如元
貞観15年(873年 12月18日 56歳 従三位、兼大宰権帥、止検非違使別当・蔵人頭・左衛門督か[6]
元慶元年(877年 10月18日 60歳 治部卿、大宰権帥如元[6]
元慶3年(878年 1月11日 61歳 兼備中守[6]
元慶4年(879年 1月11日 62歳 近江守[6]
元慶6年(882年 1月10日 65歳 中納言
元慶8年(884年 2月23日 67歳 正三位
3月9日 民部卿
元慶9年(885年 2月20日 68歳 陸奥出羽按察使、余官如元
仁和3年(887年 4月13日 70歳 致仕
寛平5年(893年 7月19日 76歳 薨去(前中納言正三位、享年76)
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系譜

脚注

参考文献

関連項目

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