地溝帯・紅海フライウェイ
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地溝帯・紅海フライウェイ(ちこうたい・こうかいフライウェイ、Rift Valley/Red Sea Flyway、通称「紅海フライウェイ」)は、東ヨーロッパおよび西アジアを繁殖地とし、中東・紅海沿岸地域を経由してアフリカの越冬地に至る渡り鳥の移動経路(フライウェイ)である[1] [2]。
| Rift Valley/Red Sea Flyway | |
|---|---|
| 渡り鳥の移動経路(フライウェイ)の一つ | |
| 基本情報 | |
| 別称 | 紅海フライウェイ |
| 経由地域 | 東ヨーロッパ・西アジアの繁殖地からレバント地方、紅海沿岸を経てアフリカの越冬地に至る回廊 |
| 主な経由国・地域 | シリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナ、エジプト、スーダン、エリトリア、エチオピア、ジブチ、サウジアラビア、イエメン |
| 主な利用種数 | 約37〜39種(滑翔性の渡り鳥、うち5〜6種が世界的絶滅危惧種) |
| 年間推定利用個体数 | 150万〜200万羽以上 |
| 世界的位置づけ | 滑翔性渡り鳥(ソアリング・バード)のフライウェイとして世界第2位の規模 |
タカ目の猛禽類やコウノトリ目、ペリカン目などの滑翔性鳥類(ソアリング・バード)にとって、世界で2番目に重要な渡り経路とされる[3]。
概要
地溝帯・紅海フライウェイは、ヨルダン渓谷からシリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナを経て南下したのち、スエズ湾付近で経路が分岐する。一方はナイル渓谷を、他方は紅海西岸(エジプト、スーダン、エリトリア、エチオピア、ジブチ)を通過し、さらに紅海東岸(サウジアラビア、イエメン)を通るもう一つの経路がバブ・エル・マンデブ海峡で合流したのち、東アフリカの大地溝帯へと続く[4] [5]。
サーマル(上昇気流)を利用して羽ばたかずに滑翔する猛禽類やコウノトリは、上昇気流が発生しにくい海域や山岳地帯を避けて移動するため、地形的に狭まった特定の地点(ボトルネック)に個体群が集中する[6]。
代表的なボトルネックとして、エジプト・シナイ半島南部のジェベル・ムーサ、スエズ運河南端に位置するスエズ市、シナイ半島、紅海西岸のゲベル・エル・ゼイト、そしてバブ・エル・マンデブ海峡周辺が挙げられる[6]。毎年150万〜200万羽以上、37〜39種の鳥類がこの回廊を利用してヨーロッパ・西アジアの繁殖地とアフリカの越冬地の間を往復しており、そのうち5〜6種が世界的な絶滅危惧種に指定されている[7][8]。
背景・調査の経緯
本フライウェイの経路やボトルネックの詳細は、衛星送信機を用いた追跡調査によって明らかにされてきた。ユタ大学のエヴァン・ビュークリー(Evan Buechley)らの研究チームは2012年から2016年にかけて、エチオピアからアルメニアにかけての地域で45羽のエジプトハゲワシ(Egyptian Vulture, Neophron percnopterus)に発信機を装着し、その移動を追跡した[9]。 この調査により、一部の個体が1回の渡りで最大12,000キロメートル、1日あたり最大360キロメートルを移動することが判明し、東ヨーロッパ・中央アジア・中東とアフリカを結ぶ移動回廊としてのフライウェイの重要性が科学的に裏付けられた[10]。
こうした知見を背景に、地球環境ファシリティ(GEF)の資金提供と国連開発計画(UNDP)の実施のもと、BirdLife Internationalおよびヨルダン王立自然保護協会(Royal Society for the Conservation of Nature)が主導する「地溝帯・紅海フライウェイにおける主要生産セクターへの渡り性滑翔鳥類保全の主流化」事業が、ジブチ、エジプト、エリトリア、エチオピア、ヨルダン、レバノン、パレスチナ自治政府、サウジアラビア、スーダン、シリア、イエメンの11か国・地域を対象に実施されてきた[7]。同事業は2018年に第2フェーズへ移行し、ヨルダンのアンマンに置かれた地域フライウェイ拠点(Regional Flyway Facility)を通じて活動が継続された[11][12]。
主な内容・特徴
利用する鳥類
本フライウェイを利用する鳥類は、その渡りの様式によっておおむね以下の4類型に分けられる。
- 夏鳥(東ヨーロッパ・西アジアで繁殖する種)
- シュバシコウ(White Stork, Ciconia ciconia) - 本フライウェイを代表する種の一つ、東ヨーロッパから西アジアにかけて繁殖、秋にこの回廊を南下してアフリカで越冬[7]
- ヨーロッパハチクマ(European Honey-Buzzard, Pernis apivorus)
- チュウヒワシ(Short-toed Snake-Eagle, Circaetus gallicus)も、ヨーロッパで繁殖しアフリカへ渡る夏鳥として本回廊を利用
ソウゲンワシ(Steppe Eagle, Aquila nipalensis) - 中央アジア・ロシア南部で繁殖し、冬季にはアフリカ・アラビア半島へ南下
- 旅鳥(繁殖・越冬いずれも回廊外で行い、通過するのみの種)
- 猛禽類・コウノトリ・モモイロペリカン(Great White Pelican, Pelecanus onocrotalus)など - ヨルダン渓谷やスエズ地峡、バブ・エル・マンデブ海峡を渡りの最中に通過、エジプト領内だけでも年間200万羽・約53種の猛禽類が通過する[6]。
- エジプトハゲワシ
- これらのうち世界的に絶滅危惧リスクが最も高い。IUCNレッドリストでは危機species(EN、絶滅危惧IB類相当)に分類されており、バルカン半島の個体群はこの30年間で80%以上減少したとされる[14]。
- この種に対しては、EUの資金による「Egyptian Vulture New LIFE」事業が2017年以降、バルカン半島から中東を経てアフリカに至る飛来経路全体を対象に、14か国22団体の連携により実施されている。同事業では60羽以上への衛星発信機装着による経路把握、密猟・毒餌対策要員(環境監視員・警察官・レンジャー・獣医師など500名以上)の訓練、4,000人以上の生徒を対象とした環境教育などが行われ、バルカン半島東部個体群の減少に歯止めをかけることに初めて成功したと報告されている[14]。また、GEF/UNDP/BirdLifeの事業においても、電力インフラの適正配置や密猟対策の一環としてエジプトハゲワシを含む脅威種の保護が図られている[7][11]。
- シロハラチュウシャクシギ(Numenius tenuirostris)
- 同じ中東地域のイラクの湿地帯を渡りの越冬地としていたが、2024年11月にBirdLife Internationalによって絶滅が宣言された。湿地環境の劣化が渡り鳥に及ぼす影響の深刻さを示す事例として注目されている[15]。
国際的な保全協力体制
本フライウェイの保全にあたっては、BirdLife Internationalを核として複数の国際的な枠組みによる地域横断的な連携が行われている。BirdLife Internationalは119か国・124団体からなる世界的なパートナーシップを有し、各国のパートナー団体(エジプト自然保護協会、ヨルダン王立自然保護協会 (RSCN)、エチオピア野生生物自然史協会 (EWNHS)など)を通じて現地での保全活動を展開している[16]。
GEF/UNDPが資金提供する「主流化事業」は、この協力体制のもとで狩猟、エネルギー、農業、廃棄物管理、観光の5セクターを対象に、11か国にまたがる規制・実務の標準化を進めてきた[17]。
さらに、移動性野生動物種の保全に関する条約(CMS)およびアフリカ・ユーラシア渡り性水鳥保全協定(AEWA)の枠組みも、本フライウェイの大部分をカバーする各国に共通の法的基盤を提供している。環境アセスメント(EIA・SEA)の実施に関する調査では、AEWA加盟国の多くがすでに法制度上の枠組みを備えていることが確認されている[18]。以上のように、地溝帯・紅海フライウェイにおいては、BirdLife Internationalを軸とした世界各地域の国家間連携が制度的に存在しているといえる。ただし、シリア、イエメン、スーダンなど紛争下にある国では、こうした国際枠組みへの実務的な参加や国内実施体制が著しく制約されているのが実情である。
地域情勢の変化と鳥類への影響
2020年代に入り、フライウェイ沿線国における武力紛争の拡大が、渡り鳥の生息環境に具体的な悪影響を及ぼしている。
- イエメン内戦
- イエメンの2015年以降の内戦により、アデン近郊の湿地帯「ペリカン・レイク保護区」を含む沿岸湿地の管理体制が崩壊した。同保護区は2006年にイエメン政府によって国内外の鳥類の重要な繁殖地として指定されていたが、内戦による行政機能の低下とごみ処理体制の崩壊により、プラスチックごみや建設廃材が堆積し、かつてこの地で越冬・中継していたペリカンやフラミンゴなどの飛来数が大きく減少している[19]。また、イエメン国内で唯一のラムサール条約登録湿地であるソコトラ島のデトワ潟湖を含む保護区も、内戦下での制度的空白と資金不足により管理水準の低下が指摘されている[20]。
- スーダン内戦
- スーダンでは、2023年4月に勃発したスーダン国軍と即応支援部隊(RSF)の内戦により、環境保全体制への深刻な影響が生じている。首都ハルツーム市内にある国内3か所の指定鳥類保護区の一つ、アル・スヌート森林保護区は、渡り鳥・留鳥を含む110種以上の鳥類の重要な生息地であるが、隣接する工業地帯が戦闘により甚大な被害を受けており、汚染物質が保護区内に流入する懸念が指摘されている[21]。同国では上水・下水施設の大半が機能停止し、農業生産の急減や大規模な住民避難も生じており、これらは廃棄物管理・水質環境を通じて渡り鳥の生息環境にも間接的な影響を及ぼしうる[21]。
- イスラエル軍とハマスとの武力紛争
- ガザ地区では、2023年10月に始まったイスラエル軍とハマスとの武力紛争により、地区内の多くが被害を受けた[22]。地区中央部を流れるワディ・ガザは東地中海地域有数の湿地としてアフリカ・ヨーロッパ・アジア方面からの渡り鳥が飛来する重要な中継地であったが、国連環境計画(UNEP)は土壌・植生への被害が長期にわたり野生生物に影響を及ぼす可能性があると指摘している[23]。テルアビブ大学の研究者らも、ガザ国境地帯やイスラエル北部での戦闘に伴う農地の焼失により、メンフクロウ(Barn Owl, Tyto alba)の営巣・産卵数が減少し、餌となるげっ歯類の個体数減少を通じて猛禽類にも影響が及んでいると報告している[24]。他方、イスラエル自然公園局や鳥類学者は、渡り経路そのものは地形と本能に規定されるため、戦時下でも数百万羽規模の渡り自体は例年通り継続し、局地的な採餌環境の悪化はあるものの渡りの経路や規模に大きな変化は確認されていないとも述べている[25]。
- イスラエルのレバノン侵攻
- レバノンでは、2023年10月から2024年11月の停戦までイスラエル軍とヒズボラとの間で断続的な戦闘が続き、2024年9月以降にはイスラエル軍による地上侵攻を伴う大規模な軍事作戦が展開された。この間、レバノン南部を中心に山火事や砲撃により推定1万ヘクタール超の森林・農地が焼失し、オリーブ園や果樹園、養蜂も大きな被害を受けたと報告されている[26]。渡り鳥の中継地となってきたレバノン南部の森林・農地では、営巣・採餌環境そのものが失われた地域があり、現地の環境団体は白リン弾の使用による土壌汚染も含め生態系への長期的な影響を指摘している[27]。国際人道法の観点からこうした環境被害の評価を行う研究者からも、水資源の汚染や廃棄物処理施設の破壊が長期的な環境影響を及ぼすとの分析が示されている[28]。なお、2024年11月の停戦後も散発的な越境攻撃が継続しており、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)は2026年4月の攻撃に際しても、大気汚染物質の放出や水系汚染、生態系破壊を含む深刻な環境被害が生じたとする専門家の見解を公表している[29]。
これらの事例からは、本フライウェイの中継地・越冬地となっている国々における政情不安が、直接の生息地破壊のみならず、行政機能の麻痺による環境管理の空白化という形で渡り鳥に影響を与えてきた。紛争が継続、あるいは新たに発生した場合、モニタリング体制や国際協力事業の現地実施がさらに困難になる可能性がある。
現時点における主要な課題
本フライウェイが直面する課題は多岐にわたるが、主要なものとして以下が挙げられる。
- 違法な狩猟・密猟
- スローに飛翔する猛禽類やコウノトリは目立つ標的となりやすく、スポーツ・剥製・食用目的での射殺が広く行われている。ハヤブサ類はシリア、エジプト、レバノンなどで捕獲され、アラブ首長国連邦の鷹狩り需要に供給されることがある。アフリカ・ユーラシア規模では毎年推計2,500万羽が違法に殺傷・捕獲されているとされる[30]。
- エネルギーインフラとの衝突
- 送電線への感電、風力タービンへの衝突が主要な死亡要因となっている。エジプトはスエズ湾岸で再生可能エネルギー開発を進めているが、有望な風況地域の一部が渡りのボトルネックと重なっており、開発と保全の両立が課題となっている[31]。これに対しては、渡りのピーク時にレーダー監視をもとに一時的にタービンを停止する「シャットダウン・オン・デマンド(SOD)」方式が導入され、一定の成果を上げている[31]。
- 農薬・廃棄物管理の問題
- 農地での有害な殺虫剤による中毒、ごみ集積場での有害物質誤飲、不適切な排水処理施設での溺死・中毒などが報告されている[7]。
- 紛争による保全体制の空白化
- 前述のとおり、シリア、パレスチナ、イスラエル、レバノン、イエメン、スーダンなど複数の沿線国における武力紛争が、行政能力・国際協力の実施基盤を損ない、モニタリングや法執行の継続を困難にしている。
- 湿地の消失
- 世界的に湿地は森林の3倍の速度で消失しているとされ、中東地域の湿地は渡り鳥にとって不可欠な中継・越冬地であるにもかかわらず、イラクの湿地帯のように既に半分以下の面積に縮小した例もある[15]。
影響・評価
GEF/UNDP/BirdLifeによる「主流化事業」は、狩猟・エネルギー・観光・農業・廃棄物管理の5セクターにわたり、政府・民間の政策や実務慣行の確立という形で複数の環境面での成果を上げたと評価されている[17]。特にエジプトにおけるシャットダウン・オン・デマンド方式の導入は、200名以上のスタッフ(うち75名が女性)を訓練し、風力発電の拡大と渡り鳥保全の両立を図る先駆的な取り組みとして紹介されている[8]。また、ヨルダンのアンマンに置かれていた地域フライウェイ拠点は、事業終了後にBirdLife International自体へ完全に統合され、恒常的な地域連携体制の一部として継続されている[12]。
一方で、これらの成果は主に平時における制度構築を前提としたものであり、紛争下にある国々では実施基盤そのものが失われている。今後の課題は、政情が不安定な地域においても最低限の生息地モニタリングと密猟対策をいかに継続するかという点にあるといえる。