坂ノ市

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坂ノ市(さかのいち)は、大分県大分市東部にある地区の地名である。

地理

大分市の東部に位置し、東側で佐賀関と接している。北側で別府湾に面し、南部に九六位山等の山地、西に丹生台地を有する。地区は、坂ノ市小学校小佐井小学校丹生小学校の3校区からなる[1]

  • 面積 - 49.09km2[1]
  • 人口 - 18,642人(2016年3月末時点)[1]
  • 河川[2]
  • 本田川
東上野地区の折立付近を源流として細地区を通り日吉原公共埠頭の日吉原橋付近を河口とする本田川水系の本流。名前は流域の旧名(本田地区)に由来する。
  • 金道川(かなどうがわ)
木田地区の畑神社跡付近を源流として坂ノ市小学校の東側を通り、浜中公園付近を河口とする丹生川水系の支流。名称の由来は、萬弘寺の鐘楼(鐘堂)が沿岸(現在の坂ノ市小学校付近)にあったことに因む説[3]と、上流に砂鉄の鉱脈があることに関係する説がある。
  • 尾田川
御所峠の渓谷を源流として、小佐井地区と坂ノ市地区の間を流れる丹生川の支流。古くは「王ノ瀬川(おうのせがわ)」とも呼ばれ、かつては海に流れ出る本流と認識されていた[4]。JR日豊本線の「王ノ瀬川橋梁」に名残がある。1964年施行の河川法により丹生川が本流と定義され、王ノ瀬川が王ノ瀬地区(合流地点より下流)を通らない状態となったことから、「市地区(小佐井)と木地区(坂ノ市)の境界を流れる川」という意味を当てて現在の名称となった。[3]
  • 丹生川
名称は上流の丹生地区に水銀朱(辰砂)を産出することに由来。下流域は流域の地域名から「王ノ瀬川」の通称を持つ。

歴史

古代には海部郡佐加郷、丹生郷および佐尉郷の一部であった。なお、当時の佐加郷は現在の佐賀関等を含む広い地域であったと考えられている。佐加郷は中世には佐賀郷となった。 近年の「丹生川坂ノ市条里跡発掘調査」により、一帯は古代の区画整理である条里制が適用された、当時としては大規模な水田が広がっていたことが判明している。また、丹生川の上流地域では祭祀などに使われる丹(辰砂)を産出し、儀式に使われたとみられる石敷遺構が発掘されているなど、農業・祭祀の中心地であったことが推定されている。 亀塚古墳を筆頭とした複数の古墳および古墳時代以前の遺跡が確認されおり、萬弘寺用明天皇の創建)、「王ノ瀬」「御所峠」(用明天皇の聖蹟)、太良砦(現在の太郎丸)等がある。

中世、大友氏第11代大友親著が萬弘寺を再建して精舎を寄進した後、現在の坂ノ市小学校付近(「古屋敷」の地名があった)に居を構え、小学校のプール南側周辺に代官所を設置していた。 室町時代には将軍の命を受けた荻本貞清が大阪から海路この地に向かい、佐伯に上陸した後、大野郡を経て王ノ瀬川にたどり着く。貞清はこの地に永住することを決心し、屋敷や倉庫を造営した。永住を決心した地を「志生場」と名付け、現在も大分バスの停留所名として残っている。

戦国時代、島津氏の襲来(豊薩合戦)により、日吉神社縁起に記された「烏有に帰す」状態にまで荒廃する。古くから大分と愛媛を結ぶ「愛媛街道(伊予街道)」が通っており、「大名道」と呼ばれる、参勤交代の行列が通ったとされる道の跡が残っている[3]など、人や物の往来があったと思われるが、江戸時代後期に記された西遊雑記には「鶴崎より佐賀の関まで陸も五里、海上も五里、此道あしからずといへども休むべき茶屋もなく、草履わらぢも自由には調へがたき所にて、民家の風俗筆に書しがたきほど賎し。白焔硝を製する所も見かけしなり。[5]」と記載されており、旅人が休憩する茶屋や、消耗品である草履・わらじすら満足に調達できないほど物資が乏しかったこと、また民家の暮らしぶりが言葉にできないほど困窮していた様子がうかがえる。さらに、火薬の原料となる白焔硝の製造という過酷な労働環境が身近にあったことも示されており、当時の地域住民が貧しく劣悪な生活環境であったことが推測される。

明治に入り、御所峠を経由して臼杵までの道が整備されると、愛媛街道から臼杵・佐伯を結ぶ交通路への分岐点として小さな宿場町へと変貌する。これは鉄道が臼杵まで開通する大正時代後期まで続き、市村には乗合馬車や人力車の待機場が作られていた。 鉄道開通により宿場町としての役割を終えるが、流通網が整備されたことで、農産物や陶器の出荷拠点として発展する。穀物輸出検査所[6]を始めとする港湾施設のあった王ノ瀬地区には第二十三国立銀行を始めとした商店、郵便局や法務施設があった下市・上市地区には料亭や劇場が立ち並ぶ街として繁栄した。

昭和初期、坂ノ市に拠点のあった北部銀行が破産(1924年)、坂ノ市銀行が解散(1926年)した直後に昭和金融恐慌が発生し、大きな打撃を受ける。 なお、恐慌以前は前述の銀行の他、佐賀関銀行、挟間貯蓄銀行、大分共立貯金銀行など複数の金融機関の支店・出張所が開設されていた。

1940年(昭和15年)火薬炸薬工場として東京第二陸軍造兵廠坂ノ市製造所(現在の旭化成大分工場)が一木地区に建設されることになり、予定区域の住民が宮崎地区(後の尾田地区)へ集団移住する。同時に移転した万願寺(尾田公民館)脇には「建邨記念碑」が建立され、万願寺が現在の地に移転した際に碑も移築されている。

1967年(昭和42年) 当時の社長が屋山地区出身であったことが縁となり「東洋陶器大分工場」が屋山地区に建設される。

漢字表記の変遷

「サカノイチ」の漢字表記は公式の記録に残るものでも数種類が存在する。

  • 坂ノ市
現在の地域名として使われている「坂ノ市」は、明治期に佐賀村、市村が誕生した時点で既に市村のとして存在[7]しており、後の合併によって一地区の名前が地域名に発展し合成地名のようになったと考えられる。1963年(昭和38年)3月10日に合併して大分市の一部となるまでは、北海部郡坂ノ市町であった。
1907年(明治40年)に佐賀村と市村が合併して誕生した村名であるが、村内所在の司法機関や金融機関の名称としては後述の「坂之市」が使用されており、佐賀県佐賀市(1889年発足)と混同しないよう忌避されていたと考えられる。
  • 坂之市
坂ノ市町の誕生以前において多用されており、市村に存在した大分銀行坂之市出張店[12][13]の他、佐賀市村の誕生後、大分区裁判所市出張所は坂之市出張所へと名前を変更している[14]
  • 阪野市(坂野市)
1893年(明治26年)に市村郵便局が阪野市郵便局に改称[15]され、1899年(明治32年)に阪野市郵便電信局[16]、1911年時点で坂野市郵便局[17]と、1921年に坂ノ市郵便局へ改称[18]されるまでは地域名とは異なる表記となっている。管轄区域は現在の坂ノ市地区と一致しておらず、1902年時点[19]では川添村,西大在村,東大在村,神馬木村も含まれていた。
「坂野市」は1907年発行の「大日本地名辞書」[20]や1912年発行の「帝国地名辞典」[21]に、市村の別名として掲載されている。
  • 坂の市
現在では大分バスの停留所名に使用されるのみであるが、1920年(大正9年)に発行された「大分県実業案内」[22]では、わずか5頁(60-64p.)の中に、「坂ノ市町」「坂之市町」「坂の市町」が混在しており、坂ノ市町が発足した当初は町名・地域名・小字の漢字表記が混乱していた可能性もある。

年表

交通

出身有名人

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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