嵯峨朝初頭の大同4年(809年)従五位下に叙爵し、翌弘仁元年(810年)薬子の変終結後に民部大輔に任ぜられる。まもなく陸奥介に任ぜられ、陸奥出羽按察使・文室綿麻呂に従って蝦夷征討に参画する。弘仁2年(811年)4月に大伴今人・佐伯耳麻呂と共に征夷副将軍に任ぜられると、10月に征討軍は一定の戦果を挙げ、12月には蝦夷征討の功労として大伴今人・佐伯耳麻呂と共に昇叙され、鷹養は従五位上となった。
その後、弘仁4年(813年)正五位下・武蔵守、弘仁7年(816年)従四位下と引き続き地方官を務めながら順調に昇進している。弘仁8年(817年)閏4月16日卒去。最終官位は散位従四位下。