坊の塚古墳
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高さ10.7m(後円部)
| 坊の塚古墳 | |
|---|---|
|
墳丘(手前に前方部、右奥に後円部) | |
| 所在地 | 岐阜県各務原市鵜沼羽場町5丁目26番地ほか |
| 位置 | 北緯35度24分11.33秒 東経136度55分31.70秒 / 北緯35.4031472度 東経136.9254722度座標: 北緯35度24分11.33秒 東経136度55分31.70秒 / 北緯35.4031472度 東経136.9254722度 |
| 形状 | 前方後円墳 |
| 規模 |
墳丘長120m 高さ10.7m(後円部) |
| 埋葬施設 | 竪穴式石槨 |
| 出土品 | 石製品・勾玉・埴輪など |
| 築造時期 | 4世紀後半 |
| 史跡 | 国の史跡「坊の塚古墳」 |
| 特記事項 | 岐阜県第2位の規模 |
| 地図 | |
坊の塚古墳(ぼうのつかこふん[1]/ぼうのづかこふん[2])は、岐阜県各務原市鵜沼羽場町にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。
| 古墳名 | 墳丘 | 埋葬施設 | 築造時期 | 史跡指定 | |
|---|---|---|---|---|---|
| 一輪山古墳 | 円墳 | 直径9-28m | 不明 | 4世紀後半 | (消滅) |
| 衣裳塚古墳 | 円墳 | 直径52m | 不明 | 4世紀後半? | 県史跡 |
| 坊の塚古墳 | 前方後円墳 | 墳丘長120m | 竪穴式石槨 | 4世紀後半 | 国史跡 |
| 金縄塚古墳 | 円墳 | 直径38m | 不明 | 5世紀後半 | 市史跡 |
岐阜県南部、各務原台地の東縁部に築造された大型前方後円墳である[2]。一帯では前・中期古墳の一輪山古墳(消滅)・衣裳塚古墳や、終末期古墳の鵜沼西町古墳(消滅)が分布する。1886・1902年(明治19・35年)頃に盗掘に遭っているほか[3]、1992年(平成4年)・2015-2021年度(平成27-令和3年度)に発掘調査が実施されている。
墳形は前方後円形で、前方部を南西方向に向ける。墳丘は3段築成で、下段の大部分は地山の削り出しによる[4]。墳丘長は120メートルを測り、各務原市では最大、岐阜県では昼飯大塚古墳(大垣市昼飯町、150メートル)に次ぐ第2位の規模になる[3][注 1]。墳丘外表では、チャートを使用した葺石のほか、墳頂部でのみ円筒埴輪列(朝顔形埴輪含む)が確認されている(各務原市内では唯一の円筒埴輪列)[4]。また墳丘周囲には、盾形の周溝が巡らされる[4]。埋葬施設は、後円部中央における竪穴式石槨(竪穴式石室)である。盗掘に遭っているが、石槨内からは石製品などの副葬品の出土が知られるほか、調査では墓坑周囲に壺形土器を並べた形跡や、小型丸底壺・高坏・食物形土製品および玉類・石製品などが出土している[4]。
築造時期は、古墳時代前期末の4世紀後半頃と推定される[4]。3段築成の墳丘は前方後円墳の中でも上位の規画とされて昼飯大塚古墳と比肩するほか、畿内的な円筒埴輪列と在地的な壺形土器が併存しており、ヤマト王権の影響力が美濃地域へ及ぶ過程を考察するうえで重要視される[5]。
遺跡歴
- 15-16世紀以前、盗掘[6]。
- 1886・1902年(明治19・35年)頃、盗掘[3]。
- 1957年(昭和32年)3月25日、岐阜県指定史跡に指定[1]。
- 1972年(昭和47年)、遺物の再発見[7]。
- 1992年(平成4年)、範囲確認調査(各務原市埋蔵文化財調査センター・各務原市教育委員会、1997年に報告)[3]。
- 2014年(平成26年)、地元の土地共有財産管理組合から土地の寄付[4]。
- 2015-2021年度(平成27-令和3年度)、発掘調査:第1-6次調査(各務原市埋蔵文化財調査センター・各務原市教育委員会、2022年に報告)[4]。
- 2015年度、第1次調査。
- 2016年度、第2次調査。
- 2017年度、第3次調査。
- 2018年度、第4次調査。
- 2019年度、第5次調査。
- 2020年度、地中レーダー探査。
- 2021年度、第6次調査。
- 2024年(令和6年)10月11日、国の史跡に指定。
墳丘

墳丘の規模は次の通り(括弧内は『各務原市史』記載値)[4]。
- 墳丘長:120メートル(120メートル)
- 後円部 - 3段築成。
- 直径:68.13メートル(72メートル)
- 高さ:10.74メートル(10メートル)
- 前方部 - 3段築成[8]。
- 幅:64.52メートル(66メートル)
- 高さ:8.15メートル(7.8メートル)
墳丘は3段築成で、昼飯大塚古墳に比肩する規画になる[4]。また墳丘外表では、各務原市域で唯一の例となる円筒埴輪列が認められている。ただし埴輪列は1・2段目では認められず、最上段(3段目)のみになる[4]。
- 前方部から後円部を望む
- 後円部から前方部を望む
埋葬施設

埋葬施設は竪穴式石槨(竪穴式石室)で、後円部中央に構築されている。明治以前(15-16世紀の山茶碗・土師皿が出土)[6]および明治19・35年頃に盗掘に遭い[3]、後円部中央には大きな盗掘坑が存在していたが、平成29年に発掘調査が実施されている[6]。
調査によれば、石槨は後円部中心からやや北西に位置し、墳丘主軸と平行する北東-南西方向を主軸とする[6]。墓坑周囲には壺形土器を並べる。墓坑は1段掘りで、長さ約6.3メートル・幅約4.8メートルと推定される[4]。墓坑内の石槨は板石を積み上げた上に天井石が架けられており、天井石は計5枚が確認される[6]。石槨の全容は明らかでないが、長さ5メートル・幅1メートルと推定される[4]。石槨内から出土したという遺物が伝世されるほか、発掘調査でも遺物数点の出土が認められている。
