城興寺 (京都市)
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| 城興寺 | |
|---|---|
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本堂 | |
| 所在地 | 京都府京都市南区東九条烏丸町7-1 |
| 位置 | 北緯34度58分48.4秒 東経135度45分32.6秒 / 北緯34.980111度 東経135.759056度座標: 北緯34度58分48.4秒 東経135度45分32.6秒 / 北緯34.980111度 東経135.759056度 |
| 山号 | 瑞寶山 |
| 宗派 | 真言宗泉涌寺派 |
| 本尊 | 千手観音 |
| 創建年 | 伝・応徳2年(1085年) |
| 開基 | 伝・藤原信長 |
| 別称 | 成興寺 |
| 札所等 | 洛陽三十三所観音霊場第22番 |
| 公式サイト | 瑞寶山 城興寺 |
| 法人番号 | 4130005002215 |
城興寺(じょうこうじ)は、京都市南区にある真言宗の寺院。山号は瑞寶山(ずいほうざん)。本尊は千手観音。歴史的名称では成興寺とも書く。洛陽三十三所観音霊場第22番札所。
この地には、藤原道長の孫藤原信長が住していた邸宅・九条殿があった。そこに、信長によって応徳2年(1085年)にその邸宅内に丈六佛を安置する九条堂が建てられ、城興院と名付けられた。これが当寺の始まりであるという[1]。本尊は、円仁が承和5年(838年)に遣唐使の一員として入唐した時、無事の帰朝を念じて船中で造作したという観音像である[2]。
その後、永久元年(1113年)に藤原忠実によって城興院の規模は拡大され城興寺とされ、保安3年(1123年)に白河法皇の院宣をもって伽藍供養が行われたと寺伝は伝えている[1]。『城興寺古伽藍図』に見る当時の寺容は、周囲を築地塀で囲い、九条大路に面して南大門が、中央一列に放生池・仁王門・金堂・講堂と、東側に多宝塔と鐘楼が、西側に御影堂、北側には庫裡や数々の僧坊など、堂塔伽藍が建ち並ぶ寺であった[1]。
しかし、当時の記録によれば寺伝とは経緯が全く異なる。信長の死後に九条堂はその未亡人であった後室が領し、僧となっていた息子の澄仁が別当を務めていたが、後室は九条堂を白河法皇に寄進した上[3]、不仲となった澄仁を追放する。嘉承元年(1106年)に比叡山横川に逃れた澄仁と彼に同情する悪僧・神人は、後室が住んでいた関白藤原師通の二条亭を襲撃して報復を加えた[注 1]。これに激怒した白河法皇は澄仁を処罰しただけでなく天台座主の仁源に九条堂を与える[4]。この時点で九条堂は藤原氏の手から失われ、王家領もしくは延暦寺の有力門跡であった梨本門跡領とされ、後に白河法皇の孫で同門跡を継承した最雲法親王が領したと考えられている[5]。
平安時代末期には、最雲法親王の弟子であった以仁王がこの寺の寺領を領していたが、治承3年(1179年)に平氏政権によってとりあげられて梨本門跡出身の天台座主明雲に与えられた。このことが以仁王の挙兵の原因のひとつとされている[1][注 2]。明雲が法住寺合戦で戦死した後、先の平氏政権の没収措置の正当性などを含めてその領有について紛糾するが、明雲の弟子承仁の領有を経て、以仁王の子で承仁の弟子でもあった真性に受け継がれた。その後、青蓮院の支配を経て、16世紀の記録によると寺領は比叡山不動院の管理下にあったことが知られる。
創建当初は広大な寺域を誇り、天台宗・密教・禅宗・律宗を学ぶ四宗兼学の道場であったが徐々に衰微し、応仁の乱で焼失し、衰退した[1]。この後、当寺は烏丸通り沿いに濠を構えてわずかに自衛している[1]。
江戸時代になると当寺は観音霊場として有名になり、安永9年(1780年)発行の『都名所図会』には「成興寺は九条烏丸にあり、本尊観世音は慈覚大師(円仁)の作なり」という記載がある[1]。
現在では本堂の観音堂と庫裏、境内社として薬院社を残すのみである。薬院社は平安時代初期にこの付近にあった平安京の施薬院に由来し、薬院稲荷として崇敬を集めてきたが、1878年(明治11年)に当寺にある吒枳尼天堂に合祀され、新たな薬院社とされた[7]。
境内
前後の札所
- 洛陽三十三所観音霊場
- 21 法性寺 - 22 城興寺 - 23 東寺
所在地
- 京都府京都市南区東九条烏丸町7-1