1991年の発掘で、この遺跡の造営が屈家嶺文化初期にまでさかのぼることが確認された。遺跡の平面はほぼ円形で、直径は約325m。これまでに周囲をめぐる濠、版築城壁、城門、遺跡内部の版築基壇、さらに道路などが確認されている。
濠は一部が人工で掘られ、自然の河川を利用してできていた。現在でも西南部から北門にいたる部分が残っており、その長さは460m、幅約35m。深さは約4mに達する。大渓文化期の環濠からは船の櫂などの木製品が発見されている。
版築城壁は幅約20m、頂上部の幅約7m、残高は濠の水面から5.7m - 6.3m。城壁の切れ目、つまり城門は東西南北にあわせて4か所あり、そのうち東門では、河原石を敷いた幅約5mの城内に通ずる道路が確認されている。北門にあたる場所には、円形の池があり、そこから水道がのびて濠とつながっていた。
城内中心部のやや西寄りと南寄りの2か所で版築基壇が発見されているほか、土器製作工房と墓地の所在が確認されており、これまでに8基の窯跡と500基近くの墓が発掘されている。また城内中央のやや西寄りの地点で、東西両門を繋ぎ、都市遺跡を貫通していたとみられる主要道路の一部が確認されている。紅焼土を敷いた幅約2mのこの道路の両脇には、水溝が設けられていた。
遺跡では灌漑用の溝をもった水田が発見されている。畦畔による階段式の水田区画が認められる。