執行種兼
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出自
略歴
執行直明の子として誕生。
永禄12年(1569年)、大友氏が龍造寺隆信を攻めるべく肥前へ侵攻してくると、主君・江上武種は大友氏に誼を通じた。このとき種兼は、江上重臣として牧吉種次と共に嫡男を(牧吉は次男を)大友氏へ人質に出している。翌元亀元年(1570年)の今山の戦いでも、武種に属して龍造寺氏と戦っている。
元亀2年(1571年)、龍造寺氏の攻勢が強まり、鍋島直茂を総大将とした征討軍が勢福寺城に攻め寄せてきたが、種兼は旗下の城原衆6-700名を自ら率いて龍造寺軍の撃退に貢献。その後、江上武種が龍造寺隆信の猛攻に屈し、隆信の子・家種を養子に迎えると家種に仕えた。その翌年の朝日山城の筑紫昭門討伐には家種の名代として出陣。明朝になって他の陣営らと一斉に攻めるという約束であったが、独断で自らが率いた城原衆300余のみにて夜襲を仕掛けて城を落とした。この功により種兼は、隆信より200町を加増されている。
天正7年(1579年)、種兼はこの頃、大友氏の抑えとして筑前国の早良郡に在陣していたのであるが、荒平城の小田部鎮元[注釈 1]と鷲岳城の大津留鎮忠[注釈 2]が立花道雪に兵糧を請う。種兼は道雪の派した荷駄隊を迎えるべく出陣して来た小田部ら5-600余を在番の73名のみで奇襲、小田部と大鶴宗逸[注釈 3]の両名を討ち取っている。天正12年(1584年)の沖田畷の戦いでも家種軍に属して出陣したが、隆信が討たれた混乱の中で、嫡男・種直、次男・種国、三男・信直や兄・頼兼ら多数の城原衆共々、討ち死にした。
脚注
注釈
- 名は大鶴九郎俊之、民部少輔鑑湖、鎮道、鎮元、道魁、紹叱とも。大津留鎮正の次男。祖父・小田部民部少輔鎮経(松浦隼人佐鎮隆)の跡を継ぐ。『宗像記追考』荒平城 小田部氏 P.538~540
- 名は大鶴弥助鑑尚、式部少輔鎮忠、弾正入道宗秋、山城入道宗周、安芸入道、右京入道宗秀とも。大津留鎮正の三男。父から鷲ヶ嶽城の城主職を継承する。父子とも式部少輔と称したことがあり、活躍年代も重なるのでよく同一人物と記されている。『宗像記追考』鷲嶽城 大鶴氏 P.537
- 大津留鎮正の四男。鎮元、鎮忠の弟
出典
- 『北肥戦誌(九州治乱記)』(青潮社刊)