この戦いの後、佐賀平野南部の有力領主らを味方につけ戦勝に貢献した龍造寺氏が、少弐家中での発言権を強め、戦国大名化していく契機となった。
この勝利に勢いづいた少弐氏は逆に大宰府に侵攻するなど一時勢力を回復させたが、大内家の周防国守護代陶興房が九州に乗り込んでくると再び劣勢になり、さらには義隆が自身で大軍を率いて攻勢をかけて来ると、頼みの家兼にも見放された。
天文4年(1535年)には、資元は自刃して果てたため、少弐氏は一時滅亡した。
この田手畷の戦いが行われた田手川の地では、この戦いの334年後に再び戦いが発生した。明治7年(1874年)の佐賀の乱である。