塔原幸貞
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武田氏支配下での活動
塔原氏は、鎌倉時代に海野氏より分かれて、信濃国筑摩郡塔原(長野県安曇野市)を拠点とした武家である。代々塔原城を本拠地として活動した。
天文22年(1553年)、武田晴信が筑摩郡中・北部へと侵攻し、破竹の勢いで刈屋原城や会田虚空蔵山城などを攻略・降伏させた[2]。
同年4月2日、刈屋原落城と同日に、塔原城が「自落」する。戦後、晴信は塔原氏に代わり、新たに海野三河守を塔原領主として据えたと推定されている[3]。
永禄10年(1567年)、武田家臣団が武田信玄に対し忠誠を誓う起請文を、生島足島神社に納付する際、単独で「海野三河守幸貞」として、また三河守被官として桑原康盛・塔原某・山崎・堀内が連署した二通を跡部勝資に提出している[4]。三河守被官衆の書状は、「三河守が信玄に逆心を持ったら説得し、それでも聞き入れられなければ三河守と義絶して、自分達は信玄に従う」という内容であり、信玄治世での国衆とその家臣団の相互監視が見て取れる[5]。
幸貞は、武田信玄の家臣として、元亀年間頃には20騎を率いる信濃先方衆であった[6]。
永禄12年(1569年)には、海野伊勢守・海野衆と共に「海野三河守」が、武田氏より、鑓の数や乗馬衆の装備に関して詳細な軍役指令を受けており、この人物は幸貞か[7]。
天正9年(1581年)では、伊勢神宮の御師である宇治久家が記した「信濃国道者之御祓いくばり日記」にて、「海野三河守」として、熨斗五十本及び、上の茶十袋を受け取った記録がある[8]。この日記では、三河守に続いて「同名たうの原殿」なる人物も茶を受けている。
日岐城の戦い
天正10年(1582年)3月11日、甲州征伐によって武田勝頼が滅亡し、間もなくして織田信長も本能寺の変に斃れると、中小国人が割拠する状態となった信濃国を巡って天正壬午の乱が勃発した。同年の11月頃には、信濃府中に帰還した小笠原氏によって会田岩下氏が滅ぼされる[9]。
この頃、幸貞は小笠原貞慶に従属し、日岐氏攻めに従軍している。
日岐城攻撃では、幸貞は小笠原貞慶より先鋒に任じられ、日岐方の「西口」が無人となっていたことに乗じて犬甘久知とともに攻撃を仕掛け、火を放って日岐勢に被害を与えた[10]。
同年8月9日には貞慶より「塔原三河殿、犬飼半左衛門殿(犬甘久知?)」宛で、友軍の古厩・渋田見勢の動向や赤沢式部・小笠原出雲らの出陣を報告され、「西口」での働きを称賛されたが、一方で「西口之一左右次第分別せらるべく候。その元悉く放火せしむるの由、口惜しき次第に候」と諫められている[11]。
13日、さらに「海野三河守殿」として、貞慶より加勢が来ること、小笠原氏が木曽にて武功を挙げたことや、「會田の儀、色々申さるることども候、兎角そのもと気遣いなく、万々の仕置等、申し付けられ専一に候」と伝えられている[12]。
その後も、犬甘久知らと合力するよう指令を受けており、幸貞が日岐城攻めの中心人物の一人と見做されていたことが解る。
暗殺・塔原氏滅亡
翌天正11年(1583年)2月13日夜、幸貞は小笠原貞慶の居城である松本城に誘き出され、仁科氏庶流であった古厩盛勝らと共に城内で殺害された[13]。塔原氏一類も悉く討ち果たされ、ここに塔原海野氏は滅亡した。
2月16日、小笠原方の検分により、塔原城には一粒も兵糧が無く、古厩小屋(小岩嶽城?)に全て上げられていたことが発覚しており、盛勝・幸貞の謀反計画が明るみとなった[14]。
一連の騒動後、塔原氏の被官は「孫左近」なる人物の配下に置かれたが、小笠原氏の転封とともに帰農したとみられ、鎌倉時代より続いた塔原氏は名実ともに消え去ることとなった。