古厩氏は、南北朝時代頃に仁科本家から分かれ、安曇郡穂高古厩(長野県安曇野市)の地を領した。菩提寺は重要文化財・松尾寺と伝わる。
天文21年(1552年)8月、古厩氏領内に仁科家が築城した小岩嶽城が武田軍によって攻略され、小岩盛親が滅亡した[1]。盛勝は、この前後で晴信に仕えたと思われる。
永禄10年(1567年)における生島足島神社の起請文には、堀金盛広とともに古厩一族の古厩盛隆が名を列している[2]。
天正10年(1582年)に武田家が滅び、これにより信濃国に錯乱が起こる(天正壬午の乱)。
同年8月までには、盛勝は小笠原貞慶に従属し、日岐氏攻めにおいて、同月初旬には渋田見勢と共に穂高に陣取る。
その後、日岐城攻撃戦が始まると、盛勝もこれに加わった。登波離橋合戦では、小笠原氏与騎の岩岡氏らが犀川を渡って撤退する日岐勢に苦戦する中、古厩勢は犀川を渡り切ったとされる[3]。
天正11年(1583年)2月13日、盛勝は一族とともに、小笠原氏によって深志城に呼び出され、子の刻に誅殺された。「以上以下廿人(20人)」に及んで殺害され、これによって国人領主古厩氏は滅亡した[4]。同日には、筑摩郡の有力領主であった塔原幸貞も滅ぼされている。間もなくして盛勝長男・盛時も討ち取られるが、次男らは小笠原氏に仕えたという。