塚本慶一 (実業家)
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塚本 慶一(つかもと けいいち、1915年11月14日 - 2006年4月12日)は、日本の実業家。大阪商船三井船舶(現・商船三井)常務取締役、日本沿海フェリー(現・商船三井さんふらわあ)代表取締役社長・会長、日本長距離フェリー協会会長などを歴任した。
経歴
滋賀県出身。1936年3月に彦根高等商業学校(現・滋賀大学経済学部)を卒業し、三井物産に入社した。神戸の船舶部に配属され、当初は経理部に勤務した[1][2]。
1937年に陸軍へ現役入隊し、中支(中国中部)に従軍した。1941年5月に一度復員したが、太平洋戦争中に再び軍務に就き、第53師団(安兵団)の一員としてビルマ戦線に従軍した。従軍したビルマ戦線は、日本軍将兵約30万人のうち約20万人が戦没したとされる苛烈な戦場であった。所属した第53師団も、約1万人の将兵のうち生存者が3,000人に満たないほどの甚大な損害を受けた。多くの戦友を失いながら、まさに九死に一生を得て生還した。終戦後も直ちに帰国できず、終戦後はラングーンで約2年間の抑留生活を送り、1947年8月に帰国した。軍隊生活は召集解除期間を除いて通算約8年に及び、最終階級は陸軍主計大尉であった[2][3][4]。
この間の1942年12月、三井物産船舶部の分離により設立された三井船舶(現・商船三井)へ転籍した。復員後は同社に復職し、1952年5月から約4年間、サンフランシスコ駐在員を務めた。1956年3月に定航部米国課長、1960年12月に定航部長代理となり、北米航路や中南米航路の運営・営業に携わった[1][2]。
1964年、三井船舶と大阪商船の合併により大阪商船三井船舶が発足すると、ニューヨークに赴任し、同年10月にニューヨーク支店長に就任した。サンフランシスコ勤務と合わせ、米国での勤務は通算約8年間に及んだ。帰国後は1968年5月に審議役、同年11月に経理計数室長となった[1][5][3]。
1970年5月29日、取締役に就任し、東京支店長を兼務した。1972年5月30日には常務取締役に昇任し、東京支店長として貨物の集荷・営業部門を統括した。1974年5月30日、常務取締役を退任した[5][6][7]。
同年5月、大阪商船三井船舶社長・篠田義雄の推薦により、日本沿海フェリー(現・商船三井さんふらわあ)代表取締役社長に就任した。同社は東京―苫小牧航路の開設から間もなく、複数企業の出資・人員によって構成された会社であった。自らを「臨時部隊の部隊長」と表現し、「みんなが力を合わせて前進」を方針として社内の一体化を進めた[5][7][8]。
社長就任直後は、第一次オイルショックによる燃料価格の高騰に直面した。航路別採算を重視して経営再建を進め、1974年8月には「さっぽろ丸」を就航させ、東京―苫小牧航路の運航体制を増強した。また、北海道航路では旅客需要が季節に偏り、航空機との競争でも不利であると判断し、旅客フェリー中心の計画を貨物フェリー重視へ転換した。内航海運業界との調整を経て、川崎近海汽船との共同運航体制を構築し、東京―苫小牧間の貨物輸送を本格化させた[7][8]。
1975年2月には、荒天を避けて沖合を航行していた「しれとこ丸」との通信が途絶え、行方不明と報じられる事件が起きた。自衛隊や航空会社などに捜索協力を求めたが、同船は無事に入港した。この事件を、輸送会社の社長としての責任の重さを強く認識した出来事として回顧している。また、危機対応を通じて社内の結束が強まったという[3]。
1980年7月、日本長距離フェリー協会会長に就任し、1984年7月まで務めた[5]。
同年7月20日には海事功労者として運輸大臣表彰を受け、受賞者代表として表彰状を受領した[9]。
1981年6月、日本沿海フェリー代表取締役会長に就任した。1985年6月、同社会長を退任して相談役となった。東京港フェリー協議会会長なども務め、長距離フェリー業界や東京港のフェリー事業の発展に関与した[5][10][11]。
1987年春、ビルマ戦線での従軍体験をまとめた『イラワジの流れ―私のビルマ戦記』を刊行した[7]。
同年秋には、海運および長距離フェリー事業への功績により勲四等旭日小綬章を受章した[12]。
2006年4月12日、肺炎のため死去した。90歳没[13][14]。
日本興油(現・日清オイリオグループ)元副社長の松居四郎は義父にあたる[1]。