塩原又策

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死没 (1955-01-07) 1955年1月7日(77歳没)
国籍 日本の旗 日本
職業 経営者
しおばら またさく
塩原 又策
塩原又策(1937年頃)
生誕 (1877-01-10) 1877年1月10日
日本の旗 日本神奈川県横浜市
死没 (1955-01-07) 1955年1月7日(77歳没)
国籍 日本の旗 日本
職業 経営者
著名な実績 三共創業者
栄誉 紺綬褒章
緑綬褒章
オフィシェ・レジオンドヌール勲章
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塩原 又策(しおばら またさく、1877年明治10年)1月10日 - 1955年昭和30年)1月7日)は、日本実業家三共株式会社(現:第一三共株式会社)創業者・元社長。神奈川県出身。横浜英語学校卒業。

1877年(明治10年)、塩原又市[注釈 1]の長男として横浜市で生まれた[2]。父・又市は長野県宗賀村の出身で、横浜に出て土地の貸付で財を成していた[3]。塩原は父が60歳になってからの子であった[1]。普通小学校を卒業し、横浜英語学校で英語を、並行して漢学・数学も学び[4]、またアメリカ人について商業学を修めた[5]

明治30年(1897年)、父の知人であった大谷嘉兵衛の経営する日本製茶会社に入社し、実務の手ほどきを受けた[3]。次いで父と大谷が共同出資し設立した横浜絹物会社で取締役支配人になり羽二重の輸出に取り組むが、生糸相場の激変などがあってこの事業は失敗し1901年(明治34年)[6]に会社解散に至った[4]

絹物会社を経営していた時期、友人の西村庄太郎が渡米するにあたって新規事業の探索を依頼したところ、米国に移住し研究活動を行っていた高峰譲吉が発見した消化酵素タカジアスターゼを知ることとなった[7]。日本で自ら販売することを検討していた高峰は、西村と会見したのち塩原と電信で交渉を行い、塩原は1898年(明治31年)にタカジアスターゼの輸入販売権を獲得することに成功した[6]1899年明治32年)、塩原と西村に加え、塩原の義弟である福井源次郎の3名による出資で、匿名合資会社三共商店を設立し横浜市弁天通に店を構えた[8][注釈 2]

1902年、三共合資会社は世界最大の製薬会社であったパーク・デイヴィス製薬Parke-Davis)の日本総代理店となった[注釈 3][5]1903年(明治36年)1月には、時事新報紙面にタカジアスターゼの広告を掲載した[9]。これは日本で初の日刊紙における新薬広告掲載とされる[10]。1905年(明治38年)には雑誌『治療薬報』『薬学月報』を相次いで創刊し、医療・薬剤関係者への積極的宣伝を行った[9][10]。さらに1902年には高峰譲吉アドレナリン、また1911年には鈴木梅太郎が発見したオリザニンの輸入販売権を獲得し、何度かの組織改編を経て1913年大正2年)に三共株式会社を設立、高峰譲吉を社長に迎えた。塩原は同社の専務取締役に就任した[11]

1908年には三共がジョンソン・アンド・ジョンソンの代理店、フォード社の総代理店となる契約を締結[12]

1915年11月、内国製薬常務取締役就任[11]1916年、サトウライト株式会社専務取締役就任。1920年5月、キシライト株式会社社長就任[11]。同年9月、東京石鹸製造株式会社社長就任[11]1923年大和醸造株式会社代表取締役[11]1929年昭和4年)7月9日、三共社長に就任する[11]

また1932年1月27日、アメリカのベークライトの特許権を得て日本ベークライトを設立した[11]

1940年4月5日、長男の塩原禎三が三共社長に就任し、塩原又策は会長に就任した[11]1946年12月31日退任[11]

1955年(昭和30年)1月7日午前、胃癌のため東京都渋谷区の自宅で死去。同月10日に聖イグナチオ教会で告別式が行われた[13]

家族

栄典

その他

桂太郎の愛妾となった芸妓お鯉の伝記『お鯉物語』に、塩原は実名で登場する。若い頃に塩原が縁組したいと望むもののお鯉が身を引き[21]、後に再会する[22]という2エピソードである。ただし、同書では最初の出会いが塩原23歳、お鯉18歳の時となっているが2人の生年差は3年であり、また塩原が洋行帰りとしているが青年期に海外渡航した記録が残っていないなど、記述に疑問点も見られる。

大日本帝国陸軍軍医総監石黒忠悳と交流があり、枢密顧問官金子堅太郎が、石黒から塩原あての1932年(昭和7年)の手紙1通を保管しており、金子死後に国立国会図書館に寄贈されている[23]

関連項目

脚注

参考文献

外部リンク

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