夏允彝
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1596年(万曆24年)、南直隸松江府華亭県(現在の上海市松江区)の知識人家庭に生まれた。幼少時から学問に励み、才覚を示した。
1637年(崇禎10年)、進士に合格。福建省長楽県の知県に任命され、善政を敷いて名声を得た。
北京城が李自成の軍に落とされ、崇禎帝が自害した後、南京で弘光政権が成立すると、夏允彝は吏部考功司主事に任命された。後、すぐに官職を辞して故郷に戻った。
弘光政権が崩壊し、清軍が江南に侵攻すると、夏允彝は同志の陳子龍らとともに抗清運動を組織した。1645年、義軍の指導者であった吳易の軍に参加するため、弟子の戴之儁や息子の夏完淳とともに奔走した。吳易の軍は敗北し、松江も清軍の支配下に落ちた。多くの同志が捕縛・処刑される中、夏允彝は覚悟を決めた。同年9月17日、友人であった明の将軍・侯岐曾の別荘に身を寄せていた夏允彝は、遺書を残して自沈し、殉節した。遺体は3日後に発見され、生前の指示に従って埋葬された。