多勢亀五郎
日本の実業家、政治家
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経歴
出羽国置賜郡漆山村(山形県東置賜郡漆山村、宮内町を経て現・南陽市漆山)[3]で、資産家である3代目・多勢長兵衛の三男として生まれる[1]。1858年(安政5年)2月に分家した[1]。
明治維新後、日本の主要輸出品であった生糸の品質向上のため、兄の4代目・多勢長兵衛とともに先進技術の導入に奔走する。1872年(明治5年)に設立された官営の富岡製糸場を視察して機械製糸の技術を習得し、1873年(明治6年)には漆山に初の機械製糸工場を建設した。1874年(明治7年)には富岡製糸場から機械職工を招いて製糸工場を設立した[3]。
当初は失敗の連続であったが、たゆまぬ研究の末に「山形流沈繰法」と呼ばれる独自の技術を確立した。これにより生産された生糸は、光沢・手触りともに世界最高水準と評価され、「羽前エキストラ(Uzen Extra)」のブランド名で欧米へ輸出された。1884年(明治17年)には多勢組を組織して蒸気機関を動力とした工場に拡張し、アメリカ合衆国へも生糸を輸出し、さらに製糸の改善を図った[3]。1893年(明治26年)のシカゴ万国博覧会で金賞を受賞するなど、国際的な名声を得た。
漆山製糸業の展開
明治から大正にかけて、漆山では多勢一族による製糸工場が複数設立され、一族で「多勢組」を組織して品質の統一と輸出拡大を図った。亀五郎が経営する「金上(かねまさ)」のほか、多勢吉郎次が営む「丸多(まるた)」などの有力な工場が切磋琢磨し、最高級生糸ブランド「羽前エキストラ」の名声を世界的なものとした。これらの工場群は地域の主要な雇用先となり、女工を相手にした商店街が形成されるなど、漆山村の近代化に決定的な役割を果たした。
政治活動
政界では1889年(明治22年)以降、漆山村会議員、同村長、東置賜郡会議員、同議長、山形県会議員などを務めた[2]。
実業家としての功績が認められ、1918年(大正7年)6月には貴族院多額納税者議員に互選され[1][3]、同年9月29日に就任したが[2][4]、1919年(大正8年)6月9日、在任中に死去した[2][5]。
文化活動
親族
- 兄:4代目・多勢長兵衛(漆山における機械製糸の共同開拓者)
- 孫:2代目・多勢亀五郎(本名:信太郎。大正・昭和期の派手な遊興ぶりから「紀文大尽」とも例えられた)
- 多勢吉郎次(多勢一族の有力者であり、屋号「丸多」の当主。亀五郎らとともに「多勢組」を結成し、漆山製糸業の黄金期を支えた。長女ゑいの婿養子である多勢慶輔は、1911年(明治44年)に吉郎次の工場から分家独立して「多勢丸中製糸」を創業。現在、登録有形文化財となっている「旧多勢家住宅(丸中邸)」は、この吉郎次の系譜に連なるものである。)
