大インドネシア主義
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大インドネシア主義(インドネシア語:Indonesia Raya) は、いわゆるマレー人種を一つにまとめることを目的とした、領土回復主義的な政治理念であった。この構想は、オランダ領東インド(およびポルトガル領ティモール)の領土を、イギリス領マラヤおよびイギリス領ボルネオと統合することを目指していた。この理念は、1920年代後半にスルタン・イドリス・マレー教員養成大学の学生や卒業生、およびスマトラやジャワ出身の人物たちによって提唱され、その中にはモハンマド・ナシールやスカルノも含まれていた[1]。
「インドネシア・ラヤ」は、後にインドネシア国歌となる楽曲の名称として、1924年に採用された[2]。
大インドネシアの定義は一貫しているものの、大マレー(馬:Melayu Raya)や、それに関連するマレー世界およびマレー圏(馬:Dunia Melayu および Alam Melayu)の定義はさまざまであり、大インドネシアとほぼ同義とされる場合もあれば、マレー半島を中心とした優位性を示す概念として用いられることもある[3][4][5]。
ヌサンタラという古代概念は、イギリス領マラヤ、イギリス領ボルネオ、オランダ領東インド(おおよそ海洋東南アジア)がかつて一体であったという歴史的認識を促すものである。1824年のロンドン条約において、イギリスとオランダの植民地権益が交換された際、オランダ植民地政府はイギリスに代わって、スマトラ島クルイ地域のバトゥ・ブラクにあるクパクシアン・パクシ・パク・セカラ・ブラクなどを含むベンクル・イギリス管轄地域の統治を担った。この地域は、かつてシュリーヴィジャヤ王国、マジャパヒト王国、マラッカ王国、ジョホール王国、さらにはボルネオ島の諸王国など、現地の王朝によって支配されていた。
シュリーヴィジャヤ王国(7世紀頃〜13世紀)と、ジャワ島を拠点とするマジャパヒト王国(約1293年〜1520年)は、ともに海洋東南アジアにおける歴史的な権力の中心であり、その影響圏はしばしば交差していた。この両者の勢力の交錯は、長年にわたる国際関係における権力闘争を象徴する事例とされる。インド・マレー諸島の歴史記述において繰り返される主題の一つに、ジャワ主導への警戒感に起因する地域間の緊張がある。マジャパヒト王朝がマレー諸国に対して影響力を及ぼそうとした事例も多数存在する。
こうした歴史的な不信感は、後のインドネシア・ラヤおよびマレー・ラヤを掲げる汎民族主義運動にも影を落としていた[6]。
19世紀から20世紀にかけての植民地時代における「マレー人種」の形成に関しては、3つの特徴が特に強調されるべきである。
第一に、ラッフルズをはじめとする一部の植民地官僚が提示した定義においては、「マレー人」の人口的な範囲は比較的狭く想定されていた。
第二の特徴として注目すべき点は、このラッフルズの比較的限定的な定義と、民族的起源を明らかにしようとする姿勢と並行して、より緩やかな定義も引き続き存在していたことである。それらは時に非公式であった。たとえば、オランダはマレー語を奨励したにもかかわらず、「マレー人」という呼称を「インド諸島」の人々を包括的に表す用語として制度的には採用せず、しばしば原住民(蘭:Inlanders)、あるいはインディアン(蘭:Indier)と呼んだ。
第三の特徴として注目すべきなのは、「マレー人」という概念が形成される過程で、「人種」という考え方に平等主義的な倫理が含まれていたという点である。これは後に、「マレー性(Malayness)」という概念が「マレー人」社会内部で広められる際に生じた問題を理解するうえで、とりわけ重要な意味を持っている[3]。
汎マレー連合の構想は、海洋東南アジアの諸民族の間に見られる人種的類似性、共通の言語、宗教、文化に基づいていた。1920年代末には、オランダ領東インドの人々、特に教育を受けたプリブミ(原住インドネシア人)の間で、新たな独立国家を築こうとする思想が高まっていった。
一方、マレー半島では大マレー構想が提唱された。オランダ領東インドでは、インドネシア民族主義を掲げる青年活動家たちは、独立したインドネシア国家の建設により強い関心を寄せていた。
1928年、インドネシア人青年たちはバタヴィア(現在のジャカルタ)において青年の誓いを宣言し、「一つの祖国」「一つの民族」「一つの統一言語を支持すること」三つの理念を掲げた[7]。
1938年にイブラヒム・ヤーコブによって設立されたマレー民族主義団体クサトゥアン・マラユ・ムダは、この構想を理念の一部として取り入れた、著名な団体のひとつである[8]。
第二次世界大戦
第二次世界大戦中、大インドネシア構想の支持者たちは、イギリスおよびオランダに対抗するため大日本帝国と協力関係を結んだ[9]。この協力は、日本がオランダ領東インド、マラヤ、ボルネオを統合し、それらに独立を与えるという理解に基づいていた[10]。これらの地域が日本の占領下で統一されれば、大インドネシアの実現が可能になると考えられていた[11]。
1942年1月、クサトゥアン・マラユ・ムダ(KMM)は、日本に対し、かつて約束されたマラヤの独立を正式に要求した。これは、マラヤ全域を対象とする政治団体による、初の独立要求であった。しかしこの要求は拒否され[12]、日本当局はKMMを解散させ、その代わりにマラヤ義勇軍(Malayan Volunteer Army)を設立した。
1945年7月、イブラヒム・ヤーコブとブルハヌディン・アル=ヘルミの指導のもと、マラヤ・インドネシア人連合(Kesatuan Rakyat Indonesia Semenanjung、略称:KRIS)がイギリス領マラヤにおいて結成された。この組織は後にケクアタン・ラキヤット・インドネシア・イスティメワ(Kekuatan Rakyat Indonesia Istimewa、特別インドネシア人民軍)と改称される。組織の目的は、イギリスからの独立とインドネシア共和国との統一を達成することであり、この構想はスカルノおよびハッタとも協議されていた[13]。
1945年8月12日、イブラヒム・ヤーコブは、マレーシア・ペラ州タイピンにて、スカルノ、ハッタ、そしてラジマン・ウェディオディニグラット博士と面会した。このときスカルノは、サイゴンからジャカルタへ戻る途中で、タイピン空港に立ち寄っていた。彼は直前に、ダラットにて日本陸軍の寺内寿一元帥に召喚され、インドネシア独立に関する協議を行い、日本帝国がインドネシアの独立を許可するという直接の表明を受けていた[14]。
この短い会談の中で、イブラヒム・ヤーコブはマレー半島を独立インドネシアに統合したいという意向を伝えた。これに対してスカルノは、ハッタに伴われながらヤアコブと握手し、次のように述べた。「インドネシアのすべての息子たちのために、一つの祖国を築こう」[15]。
スカルノとムハンマド・ヤミンは、この大きな統一構想に賛同していたインドネシアの政治指導者であった。しかし、彼らはこの構想を「マレー・ラヤ(Melayu Raya)」と呼ぶことに慎重であり、代わりに「インドネシア・ラヤ(Indonesia Raya)」という名称を提案した。実質的には、「マレー・ラヤ」も「大インドネシア」も、同一の政治的理念を表している。
彼らが「マレー・ラヤ」という名称を避けた理由は、マラヤ(現在のマレーシア)と異なり、インドネシアにおいて「マレー」という語が、マレー人(マレー族)という一民族を指すものと理解されていたからである。インドネシアでは、マレー族はミナンカバウ族、アチェ族、ジャワ族、スンダ族、マドゥラ族、バリ族、ダヤク族、ブギス族、マカッサル族、ミナハサ族、アンボン族などと並ぶ多様な民族のひとつであり、対等な立場にあるとされている。
「マレー」という特定の民族に基づいた連帯の発想は、インドネシアの多民族的な統一には脆弱かつ逆効果であるとの懸念があった。なぜなら、パプア人、アンボン人、東ヌサ・トゥンガラの人々など、インドネシア東部の多くの民族はオーストロネシア系マレー民族には属さず、メラネシア系に分類されるからである。
1945年8月15日、日本の昭和天皇はラジオ放送を通じて大日本帝国の降伏を宣言した。これを受けて、スカルノとハッタは1945年8月17日にインドネシアの独立を宣言した。インドネシアが独立を宣言した後、クサトゥアン・マラユ・ムダ(KMM)はマラヤがインドネシアの一部に含まれていないことに失望し、ペラ州タイピンでの協議に基づき、スカルノや他のインドネシア指導者に対して独立の約束を求めた。
しかし状況が不安定であったため、スカルノとハッタはマラヤとの統一交渉を延期することを決定した。混乱が続くマラヤの情勢を鑑み、スカルノはイブラヒム・ヤーコブにしばらくの間マラヤへ戻らないよう要請した。すでにイギリス軍がマラヤに上陸し、植民地の再占領を進めていたためである。
協力者として非難されたイブラヒム・ヤーコブは、1945年8月19日に日本軍の軍用機でジャカルタへ移送された。彼は妻のマリアトゥン・ハジ・シラジや義理の家族オナン・ハジ・シラジ、ハッサン・マナンと共にジャカルタで身を寄せた。マレー半島のインドネシア統合を目指して戦ったイブラヒム・ヤーコブは、その後ジャカルタに留まり、1979年に亡くなるまで暮らした。
1945年8月の日本降伏後、かつてのクサトゥアン・マラユ・ムダ(KMM)のメンバーは、マレー民族主義党(Malay Nationalist Party)、アンガカタン・プムヤ・インサフ(Angkatan Pemuda Insaf)、およびアンガカタン・ワニタ・セダル(Angkatan Wanita Sedar)などの新たな政治運動の核を形成した[16][17][18]。
しかし、1945年8月の日本の敗北後、マラヤにおいて主要な支持者たちは裏切り者や日本の協力者として非難され、マレー半島とインドネシアの統一構想は次第に薄れ、ほぼ忘れ去られていった[13]。
一方、インドネシア独立宣言後の1945年から1949年にかけてのインドネシア独立戦争期における外交努力の結果、1949年のオランダ・インドネシア円卓会議を通じてインドネシア共和国はオランダからの独立を獲得した。
これに対して、海峡を挟んだマレー半島は、日本占領後に再びイギリスの支配下に戻った。