大予楽令

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大予楽令(だいよがくれい、たいよがくれい)は、古代中国の後漢時代、西暦60年から220年まで置かれた官職で、音楽をつかさどった。太予学令とも書く。

前身は、前漢時代からの太楽令である。

後漢の時代には讖緯説が流行し、予言書にもとづいて政治を動かされることがしばしばあった。後漢の第2代皇帝として即位した明帝に対し、曹充が、漢は自らの礼楽を制定して後の世に示すべきだと言上した[1]。明帝に問われて、予言書『河図括地象』と『尚書琁機鈐』を引用して、漢の世に礼楽が行われると予言されていると答えた[1]。『尚書琁機鈐』には、「漢に帝があって徳をもって治め、楽を作り、名を予とする」とあった[1]。明帝は、太楽の官を太予楽と改称し、音楽の制定は君子(の出現)を待つことにした[1]。これが大予楽令で、永平3年(60年)のことである[2]

その後、後漢の間に音楽が一新されることはなく、次ので太楽令に戻された[3]

職務と定員

大予楽令は、祭祀全般をつかさどる太常の下に属した。定員一人で、官秩は六百石。職務は、伎楽をつかさどり、国の祭祀と国家的な宴会(大饗)で音楽を演奏し、そのための楽器を用意することである[4]

次官として(大予楽丞)が一人ついた。他に25人の員吏がつき、待遇別で分けると、百石が2人、斗食が2人、が7人、学事が10人、守学事が4人であった[5]。別に、楽人と八佾舞の舞人が380人いた[5]。楽人の待遇は不明だが、舞人は良家の子弟から選抜された若者で構成されており、大予楽の職員ではない[5]。現代的に言えばお祭り・イベントの(観客ではない)参加者である。

脚注

参考文献

外部リンク

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